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[世相を読む]‘殺人の追憶’,‘査察の追憶’/ハン・ジョンスク

原文入力:2009-09-18午後09:43:35

←ハン・ジョンスク ソウル大教授・西洋史

2003年春、映画<殺人の追憶>が封切られた時、私は外国にいた。インターネットで韓国の便りにはしばしば接していたが、人間の微細な感情・感覚と関連した内容はただ気にしつつもやり過ごしていた。この映画の題名もそんなことの一つだった。追憶という言葉はある対象を本当に深く記憶することを意味することだと概略理解していた私に、‘殺人’と‘追憶’は異色な組み合わせに感じられた。

後日、映画を観覧しても題名に2つの単語を組み合わせた人の深い意図を私が正しく理解したかははっきりしない。どうであれ話題作に相応しく映画は卓越したものであったし、映画に描かれた状況は犯した過ちの露見を恐れて気をもむような身悶えを感じさせてくれた。ところで、もしかしたら、本当にもしかしたら、その誰かは連続殺人に対して、あるいはそれが起きた時期と状況に対して、愛着こもる追憶を持っているかもしれない。

この映画の題名が頭の中を掻き回すことになったのは最近これと同じように似つかわしくない単語の新しい組合わせが浮び上がったためだった。名付けて‘査察の追憶.’

民主化がされる前には在野政治家に対する査察,学院査察のような政治的目的の民間人査察が日常的生活の一部だった。査察する側と査察される人とが毎日接触しているうちに、ある種の親密なよしみが形成される場合もあったという。とにかく私が知っているある有名な方は詐欺師のような人間に困った時に、自分を査察した刑事に助けを求め、その状況を乗り切ったから。そうだとしても、その方が一挙手一投足を査察された時期を懐かしがり記憶するはずはないだろう。

ところが、国家が誰かの私有物と見なされたその時期に切なく憧れ追憶する人々も実際いるようだ。査察される人々ではなく、査察しようとする人々の話だ。昨年今年いつからか周辺の人何人かが「査察性の電話を受けたようだ」として不愉快に思ったりした。信じ難いことだと思ったが、現実は時には私たちの信頼を裏切る。民主労働党イ・ジョンヒ議員が提起した機務司令部所属の軍人による民間人査察疑惑を筆頭として、不法査察の疑惑が濃厚な事件が相次ぎ報道され始めた。

ついにパク・ウォンスン弁護士のように、韓国社会で最も信望の篤い人物の一人であり穏健で合理的な方が、自身に対する国家情報院の査察疑惑を言論に直接公開するに至った。その代価として彼は“国家”の名誉を傷つけたという理由で国家情報院の告発を受けた状態にいる。昔、国家元首冒とく罪名目の裁判が乱発された時も茫漠とした思いだったが、民主主義の突然の後退を見る心情はその時とも違う。彼が涙を流し記者会見する姿を見るのはより一層苦痛だ。

本当に理解し難いことの一つは、機務司令部(旧保安司)や国家情報院が旧軍事独裁時期に彼らが行った各種国家暴力的行為と不法査察行為に対し糾明し公式に謝罪するという過去史糾明作業を経たにも関わらず、最近再び民間人に対する査察疑惑を受けているという点だ。数多くの予算と人材をかけて進行した自体調査と謝罪・反省は無駄なたわごとに過ぎなかったということなのか。

査察疑惑はまだ疑惑に留まっているが、実際に査察が行われていたとしても、これが機務司令部や国家情報院という組織全体の方針に従ったものとは信じたくない。自身が所属した部署の組織利害や出世意志に執着した個人の過ちであろう。軍の情報機関や国家情報機関が一般市民や市民運動家を査察したという疑惑を受けるということ自体が機関の立場としては不名誉なことだ。それなら国家情報院がすべきことは厳正な自主調査を通じこうしたことが実際に強行されたのか糾明することであり、国家の名誉をふりかざして尊敬を受ける社会指導者を困惑させることではない。

ハン・ジョンスク ソウル大教授・西洋史

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/377575.html 訳J.S