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[カン・ジュンマン コラム]道徳的人間,非道徳的集団

原文入力:2009-09-13午後09:50:18

カン・ジュンマン全北大新聞放送学科教授

イ・ミョンバク大統領が去る8月、休暇を控えて読んだ本は米国の神学者ラインホールド・ニーバーが書いた<道徳的人間と非道徳的社会>だという。1932年に出版された本をなぜわざわざこの時点で読んだのだろうか? そのような疑問を感じたが、その理由を説明したある新聞記事内容が興味深い。

“ニーバーがこの本を書いたのは1930年代大恐慌に米国内で葛藤が深刻だった時だ。史上初の世界的金融危機を経て社会的葛藤が深刻になっている今の私たちの状況と似ている。イ大統領もこのような点に着眼したようだ。最近、理念と地域間の慢性的葛藤を指摘して‘根源的処方’を探すと公言したイ大統領としてはニーバーの代案に耳を傾けるに値する。”

そうだろうか? どうにもとってつけたような感じを拭いにくい。ニーバーがこの本を書いた主要目的は、道徳主義ですべての物事を解決しようとする改革・進歩主義者たちの非現実的な惰性を叱責するためであったためだ。実際にこの本に対して苛酷な批判をした人々は主に進歩主義者と社会主義者たちだった。これらはニーバーの主張に対し冷笑主義,悲観主義,敗北主義などのレッテルを付けて猛攻した。

今では常識となったが、いくら道徳的な個人たちでも彼らが集まり集団をつくれば‘権限と責任の分散’のために全く異なる特性が現れる。集団としての利益を追求する新しい論理と生理を持つようになる。その集団は国である事もあっれば巨大組織でもありうる。緩く組織された縁故集団でも同じだ。非常に善良で正しい人々により構成された縁故集団であっても、貪欲と厚顔無恥の集団に転落することがある。そこで‘道徳的人間と非道徳的社会’というのだ。

財閥でも公企業でも報道機関にしても、社会的非難を受ける巨大組織の構成員たちに直接会ってみた人々がたびたび言う話がある。人々が非常に礼儀正しく善良だったとのことだ。それで彼らが所属した集団に対する普段の考えが正しいのかと懐疑したりもする。これが真のジレンマだ。人々がある集団を評価する時に、主要基準とするのは名分や綱領などではなく、構成員たちの対人関係態度や性格であるためだ。これが不十分ならば、いくら崇高で高尚な名分のために仕事をする集団であっても憎しみと排斥の対象になりうる。特に利他的な活動をする人々は一般大衆が‘道徳的優越感’をどれくらい嫌悪するのかを深く悟る必要がある。

‘道徳的人間’の罠もある。ニーバーは「個人が一つの名分や共同体のために喜んで自身を献身する場合にも、権力意志(あるいは力への意志)は依然として残っていることになる」と話す。言い換えれば、功績の名分と私的な出世欲(名誉欲)は入り乱れるものだが、私的な出世欲が公的名分の成功を圧倒することが多いという意味だ。この本が改革・進歩主義者たちに与える教訓中の一つはいつも組織と自分自身を疑えということだ。

イ大統領がこの本を読んで、理念と地域間の慢性的葛藤を解決するための‘根源的処方’を探すと言う話はどうしてもお門違いのようだ。しかし解釈は自由だ。こう考えてみればどうだろうか。進歩とか保守とか分ける必要がなく、どんな集団の指導者や構成員一人一人がいくら善意を持っていたとしても、その集団が悪事を働くこともありうるということに関心を傾けてみよう。

利己主義と腐敗はすべての組織と集団の属性だ。この属性をなくす訳には行かないが緩和できる道はある。それがまさに門戸開放だ。種々なものをかき混ぜるピビンパ精神の実践だ。一糸不乱な効率性は多少落ちたとしても、集団が‘公共の敵’に転落するのは防げる。
カン・ジュンマン全北大新聞放送学科教授

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/376543.html 訳J.S