原文入力:2009-08-19午後06:40:43
チョン・ギョンモ-漢江も流れ多摩川も流れる(78)
←1980年5・18当時、日本外務省アジア局長だった木内昭胤が後日、外交官としてタイ王室を訪問している様子(左側)。彼は国際アムネスティの‘死刑囚金大中救命要請’を拒否し韓国人を卑下した。
1987年ムン・イクファン牧師の獄中書翰集<夢が訪れる夜明け>が日本語に翻訳され出版された時、ムン牧師が私に送られた手紙を先だって紹介したことがあります。
読者の記憶を蘇らせるために、その中の一節をここでもう一度繰り返せばムン牧師は私に「日本の良心を呼び覚まし彼らをして二度と再び過去に歩いた同じ轍に入らないように、貴兄は必死の努力を傾けていますが、それは自分の民族に対する愛だけでなく同時に愛する妻の祖国であり、血筋で言うならば半分は二人の子息の祖国でもある日本に対する愛のためであろう」とも指摘されました。しかも私を例えて「虎子を得ようと手ぶらで虎穴に入った猟師」ではないかとも仰ったがなかなかふさわしい言葉ですね。私がいる所がまさに虎穴とはね。ただし筆一本を持って飛び込んで行って、そのうじゃうじゃいる荒っぽいのをこっち殴ってあっちはたいたりしたので自分でも無謀なことこの上ない行為だったと思うけど、それは逆に言えば社会的な地位や経済的な得失でも何も失うものがなかったからこそ強者の位置に立つことができたのではないだろうか。
光州5・18抗争で金大中氏に生命の危機が時々刻々と近づいている頃、日本では「韓国がいかなる選択をしようが、主権国家である韓国自身の権利であり、韓国の主権を侵害し植民地としてその国を支配した日本としては無駄にいたずらに口出しできる問題ではない」という奇妙な論理でそれとなく金大中処刑の肩を持つ者たちが官僚層や右翼勢力内に横行していました。またこのような輩の考え方の特徴は韓国人は南北を問わず民主主義を実践するほどの能力が生態的に欠如している民族だから光州問題に対して是非を言ってみたところで無駄だということでしたよ。
5・18が起きた直後の80年8月のある日、怒りが込み上げ顔が赤くなり‘粒の力’事務所に私を訪ねてきた2人の西洋人がいました。1人はR.ウスティングというオランダ人で、もう1人はE. ベーカーという米国人でありましたが、ベーカーは韓国語をとても上手に話すだけでなく韓国史研究の同僚として私とは親しくすごした友人でした。この2人は国際アムネスティを代表して金大中氏の安否を確認する目的でまず韓国大使館を訪ねて行ったが、ビザが拒否されるや次善策として日本外務省を訪ねて行ったとのことだった。そこで会ったのがアジア局長の木内昭胤だったが、金大中氏は日本で拉致されて行った人間であっただけに日本政府としても関心を持って対策を講じなければならないのではないかと話すと木内局長が次の通り答えたよということでした。「韓国人は本来が無知蒙昧な民(backward people)であり、民主主義ができる能力のない人々だとか、金大中問題でああだこうだ話をしない方が良くないだろうか?」ベーカーとウスティングのアムネスティ代表団が怒り心頭に達して私を訪ねてきたことはそのような理由のためであったが、私が直ちに何か措置を取ることができる立場でもなく時を待ちました。
そのような折り、かなり大きな講演会が大阪で開かれ、そこに参加する機会をもらい、公開的に木内の妄言を糾弾すると同時にこのような浅薄で野卑な人物が外務省アジア局長であるということは、韓国はさておき日本自らの国際的な体面にダメージを与える処置だということを指摘しました。
その時の講演内容を要約して投稿文を作成し大阪地域版<朝日新聞>に送ったところ、それがその年12月6日付‘論壇’に載せられ相当な反応を呼び起こしました。
←チョン・ギョンモ在日統一運動家
後ほど知った事ですが木内はその年4月22日ある公開の席上で‘日本が将ならば韓国はそれを守る象’だと日本と韓国の関係を將棋盤の関係で説明したとのことだ。(<韓国をみる視点>吉岡吉典 著,白石書店1980年)
私は重ね重ねしつこく木内のこのような発言を公開的に糾弾し“それでも卒ではなく象ぐらいには認められたようだから本当にありがとう”と皮肉な言葉を繰り返したが、日本外務省から抗議や反論は一度も聞いたことがありませんでした。
私が亡命した時、身元保証をしてくれた朝日新聞社が右翼団体から抗議を受けているということは今でもしょっちゅう聞いてはいますが。
チョン・ギョンモ在日統一運動家
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/372063.html 訳J.S