原文入力:2009-08-12午後08:05:27
‘民主的愛国主義論争’進展を期待しつつ
未成熟な市民社会で‘進歩的愛国主義’は空虚な目標
イ・テククァン慶煕大教授・英文学
チャン・ウンジュ教授とクォン・ヒョクボム教授の間でやりとりされた話を興味深く読んだ。‘民主的’愛国主義に対するクォン教授の憂慮に共感し、議論をもう少し推し進めてみようと思う。本来、チャン教授の意図は国家に対する進歩陣営の原則論を実用主義的観点から解体するということだったと言える。発端となったチャン教授の寄稿文(<ハンギョレ> 7月23日付)を見ればこの事実が明確にあらわれる。要約すれば、チャン教授の主張は‘進歩も大韓民国を愛そう’というものだが、私の考えではいったいこの‘愛’というのが曖昧だ。
もちろん、チャン教授は大韓民国の全てのものに対する無条件な肯定を意味するのではないと言う。それと共にいわゆるニューライトの‘大韓民国主義’を批判する。チャン教授の立場で「ニューライトの大韓民国主義は正しい愛国主義」にはなれない。その理由は「非民主的であり、民主共和国大韓民国のアイデンティティをその根本で否定する反-大韓民国主義」であるためだ。こういう陳述を土台に類推した時、チャン教授が言っている‘愛国主義’の属性を規定するのはまさに‘民主主義’だ。言うなればチャン教授が肯定しようと考える大韓民国は‘民主共和国’である。いや他の言葉で表現するならば、民主共和国でなければならない!
ここで確認できるようにチャン教授の愛国は当為命題だ。ところで彼の議論を追って行けば、この当為命題が事実命題に特別な証明なしで席を換えることを目撃することができる。例えば、韓国の‘進歩的民主主義者など’が大韓民国を真の民主共和国だとは受け入れない姿を指摘し、「自身の国が多くの弱点と問題点を持っているからといって、その国を嫌ったり否定することが進歩的な政治的態度と言えるだろうか」と尋ねる部分がそれだ。ところがチャン教授が問題提起しているその進歩的民主主義者の態度こそ“大韓民国は民主共和国だ”という話を当為命題として受け入れるのであるから可能だ。チャン教授や進歩的民主主義者たちは実は同じ位置に立っているということだ。
それでは何が問題か? チャン教授は進歩的民主主義者たちと同じ価値判断を前提にしていながら、なぜ別の結論を導き出すということなのか? それは基本的にチャン教授が論理的混乱に陥っているためだ。チャン教授は今2種類の当為命題の間でどぎまぎしている。‘大韓民国は民主共和国でなければならない’という命題と‘大韓民国を愛さなければならない’という命題を何の悩みもなしに、そのまま置き換えてしまうのがチャン教授の論法だ。
表面的に見るとチャン教授の主張は今ここに足で立っている大韓民国を肯定しようという話のように聞こえるために、別の立場よりはるかに現実に根ざしているように見えもする。しかしそれは錯覚現象に過ぎない。チャン教授が自身の主張を裏付ける動員するハーバーマスとロティの実用主義的観点は字句どおり‘実用的’であるために、私たちの実情とは合わない。ハーバーマズがヨーロッパ的伝統を擁護するならば、ロティはアメリカ的伝統を擁護するものだ。従って前者は共和主義と福祉国家から、後者はジョン デューイの理念から夫々肯定的な側面を抽出していると見ることができる。
問題はこれらが基づいているそういう‘市民社会の常識’は韓国で発見できないという事実だ。私たちにとって市民社会の常識は今後到来することであり、すでに完成されていることではない。ハーバーマスやロティがヨーロッパ的伝統とアメリカ的伝統から進歩的議論を出発させようと思う訳は、民主共和国という伝統が‘人民’の経験で‘国家’に蓄積されていると見るためだ。こういう脈絡では悪い国家や良い国家は存在することができず、国家は超越できない政治の絶対地平として位置づけることができる。チャン教授の悩みはこの地点に相対しているものだが、彼の主張が力を得ようとするには、愛国主義に対する原則的擁護と‘大韓民国を愛そう’という韓国的要求がどのように互いに結合できるのかについて、もう少し具体的な説明が必要だと考える。
イ・テククァン慶煕大教授・英文学
原文入力: https://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/370851.html 訳J.S