原文入力:2009-05-10午後10:54:03
←カン・ジュンマン全北(チョンブク)大新聞放送学科教授
先週、全州国際映画祭でキム・ウンギョン監督の独立映画<ニュースペーパー マン:ある新聞支局長の死>を見て複雑な心境だった。そしてまもなく「そうだ、まさにこれだ !」と思った。キム監督の卓越した演出能力のためだろうか。私にとってこの映画は新聞普及に関する映画とは思えなかった。私たちの時代のすべての矛盾を貫く矢のように思えた。
<ある新聞支局長の死>は23年間にわたって新聞普及に従事したある新聞支局長が1億5000万ウォンのばく大な借金のために個人破産申請を出すための弁護士選任費用180万ウォンを用意できず自殺で命を終えた実話を扱った映画だ。その新聞支局長は死を以って何に抵抗しようと思ったのか?
<ある新聞支局長の死>が知らせる真実によれば、一部有力新聞と普及所が結ぶ契約は ‘奴隷契約’ だ。これらの新聞が平素、悲憤慷慨調で報道・論評する社会の一部のどんな ‘奴隷契約’ にも劣らず悪質だ。なぜこれらの新聞の正義感ある記者たちは自分の足もとは見ることができないのか?
私がこの映画を見て思い起こしたのは官僚主義分業体制による ‘悪の平凡性’ だ。記者たちは取材に没頭していて新聞支局でおきていることをよく知らない。いや知ろうとしてもいない。記者だけがそうか?違う。私たちの社会のあらゆる分野にいる人々が、自身が身を置いている組織でどんな悪が行われているとしても知らないふりをして安らかに生きていくことができる。それを可能にする魔法がまさに官僚主義分業体制だ。
最近、有力新聞らはノ・ムヒョン前大統領関連報道で盧前大統領とその一行が犯した ‘偽善と欺瞞’ に対して秋霜のような批判を降り注いだ。正しいことでありよくやっていることだと信じる。ところで、もう少し考えてみよう。この新聞らは ‘偽善と欺瞞’ から自由なのか?普及所には ‘奴隷契約’ を強要し、ただ紙面だけで叫ぶ ‘社会正義’ がどういう意味をもつのか。盧前大統領のそのような行為に対する熱い怒りの矢が同じように自分たちに向かうこともできるという考えを何故しないか?
私は有力新聞記者たちにこの映画を見ることを薦める。彼らの理性と良心を信じるためだ。彼らが異口同音に「これは間違っている」と一言だけ言ってもそのような不正はあっという間に直すことができる。悪は遠くにあるのではない。まさに私たちの足もとにある。
韓国言論財団の調査結果によれば、新聞購読率は1996年69.3%,98年64.5%,2000年58.9%,2002年53.0%,2004年48.3%,2006年40.0%,2008年34.6%へと持続的な減少傾向を示している。新聞の信頼度も90年55.4%,92年46.2%,98年40.8%,2000年24.3%,2006年18.5%,2008年15.0%に下落した。
新聞たちの切迫した危機感は理解する。しかし新聞支局に奴隷契約を強要して殺伐な景品戦争を行うことで新聞の危機を打開することができるのだろうか? むしろ自ら新聞の没落を催促する自害ではないだろうか? 新聞全体の共倒れを呼び起こす出血競争を中断し、新聞協会次元で上品に ‘新聞購読キャンペーン’ を行うことはできないのか? 私たちの社会のすべての公的機関が国民的不信の対象になっている現実に照らして、新聞が最も信頼を受ける機関にそびえ立つことが新聞を買うことが最上の方法ではないか? そのような信頼を土台に新聞に対する国家的次元の支援方案も模索してみることができないだろうか?
今としては夢みたいな話かもしれないが、私は有力新聞が<ある新聞支局長の死>を新聞社内で上映する勇断を下してくれることを希望する。新聞が国民の信頼と尊敬を受ける制度に生まれ変わることを切実に望むためだ。
カン・ジュンマン全北大新聞放送学科教授
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/354218.html 訳J.S