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[パク・ノジャ コラム]大韓民国の ‘唯一思想’ ,競争主義

原文入力:2009-04-29午後10:02:27
←パク・ノジャ ノルウェー,オスロ国立大教授・韓国学

‘唯一思想’といえば大多数は北側を思い浮かべるだろう。しかし南では明示的 ‘唯一思想’ はなくとも、支配者が ‘指導理念’ として当然視するイデオロギーがある。間違いなく ‘競争主義’,すなわち世界万国と国内万人が血のにじむ角逐戦にまきこまれることを前提として、適者生存戦場で弱者の淘汰を当然視するイデオロギーだ。

支配者は ‘実用主義’ を口にするが、実際彼らを代表する言論の宣伝も、彼らの政策もこのイデオロギーを背景にしている。多数の住民たちを食べさせ生かすことができたはずの資源をミサイル開発にまわす北側支配者の行動が ‘主体思想’ という軍事主義的民族主義によって後押しされていることのようにね。事実、‘競争’ に遅れをとったり ‘強大国建設’ プロジェクトの重さに押しつぶされている弱者に対する残酷性という側面で南北支配者は一卵性双生児だ。
国家的競争の次元で言えば、‘国家競争力’ という用語は-北韓での ‘自主性’ に劣らず-韓国保守報道機関と政治家たちの言説を貫くキーワードとなって久しい。‘国家競争力’ のためならば、国家と資本としては合理化できないことは何もない。遠い島国マダガスカルの全体農地の半分に近い面積を現地民衆の大々的義憤を呼び起こすほどの条件で賃借し‘食糧供給基地’ とみなそうとしてもかまわず、敷地受け入れのために土地を奪われる貧農の抵抗を無視してインド オリッサ州で製鉄所建設を押し進めてもかまわない。アジアと中南米のあちこちで特に紡織,履き物工場を経営する韓国資本家らが労働者に対する暴行から労組瓦解策動まであらゆる不当行為を日常的に行っても国内言論は一言半句も言わない。‘国家競争力’のためならば、競争で遅れをとった ‘色の浅黒い原住民’ たちがちょっとやそっと苦労しても関係ないという話だ。

‘国家競争力’ という国是に犠牲になる人々は果たして遠い国の民衆だけか?

民主主義の基本原則をほとんどあきらめたような支配者が政府の失策に対する庶民の不安と反感をその文に込めたインターネット論客‘ミネルバ’を拘束し、世界の人々を驚かせ<エコノミスト>のような西欧の保守雑誌からも批判を受ける状況になったが、国内保守言論は ‘国家競争力’ の論理でこの蛮行を正当化する。経済に対する悲観的予測が ‘市場’ にとって邪魔になるならば、表現の自由を無視してもかまわないという ‘社会’ 領域に対する ‘市場’ 領域の無条件優越性を前提とする ‘市場的全体主義’ の論理だ。<エコノミスト>が韓国支配者の民主主義圧殺作戦と北朝鮮政権の形態を比較したのは、これに対する当然の反応だ。

個人間の競争は韓国で何よりも学習競争を意味するが、そうでなくても意味も面白味もない ‘丹念に覚えること’ 競争に疲れてしまった子供たちに追加負担を上書きするのがこの政権の教育政策だ。慢性疲労が積もった子供たちを生かそうと一斉試験を拒否した教師らしい教師たちを教室から追い出したことだけ見ても、この政策の本質が何か分かるに値する。

保守主義者たちは学習競争が ‘公正だ’ というけれど、南米同様の両極化が広がり私教育が唯一成長する産業として残っている国で、こういう声は過ぎ行く牛が笑うことだ。結局 ‘競争’ の虚構が既得権を正当化するだけだ。

‘競争主義’ という大韓民国を世界民衆の搾取者にさせ、韓国人を利潤追求の機械にさせる ‘主体思想’ と同程度に残酷な妄想だ。1980年代には民主化が時代的課題だったとすれば、今は ‘競争主義’ との闘争が韓半島の将来を決めるだろう。

パク・ノジャ ノルウェー,オスロ国立大教授・韓国学

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/352478.html 訳J.S