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[カン・ジュンマン コラム]全教組のために

原文入力:2009-03-29午後09:31:17
カン・ジュンマン全北大新聞放送学科教授

最近、入学査定官制度に関するマスコミの報道を見守る心は複雑で息苦しい。私たちの典型的な問題解決方式であるためだ。‘議題すり替え’で問題を解決しようと努めるふりをするが、実は問題を悪化させる方式だ。仕事をしているというフリをしようとする政府、お金に弱い大学ら、ニュースの種になるならば踊りでも踊ってみようとする言論など‘三位一体’の合同作品だ。
しかし、それを批判するつもりはない。うまくいくように願うだけだ。むしろ、これという代案を提示するよりは「これは駄目だ」式の反対と抵抗だけを自分のアイデンティティとみなしている全国教職員労働組合(全教組)を恨みたい気持ちだ。私たちの社会教育論争の大きい流れが‘全教組 対 反全教組’の構図になっているので、全教組が負わなければならない責任は大きい。

だが、どうして全教組のせいだけにできるだろうか。同じ側だと考えれば、苦言は酒の席ででも済ませて、公式的には‘外部の敵’に向かうだけにすべての関心とエネルギーを集中させる私たちの‘理念の輩主義’が社会的問題の解決を難しくさせる主犯だと見るのが正しいだろう。

この間、保守新聞らは全教組に対して非難を浴びせてきた。反面進歩新聞らの紙面では、全教組に対する批判を探してみることはできない。両側の新聞紙面だけについてみるならば、全教組は悪か善だ。その中間はない。ところで果たしてこれが真実であろうか?

それが真実でないという声は全教組内部からも出てきたことがある。去る2006年全教組一線小学校分会長が、全教組の経てきた闘争方式に対して自省を促す文を発表したことがある。2007年には全教組執行部出身現職教師が「全教組は政治的・官僚的に変質した」として自省を促した。しかし進歩新聞らからは何の話もない。

このものすごい組み分け文化に嫌気をおこす人々がいるならば、その方たちに二冊の本を推薦したい。ソウル,チャンドン高等学校イ・キジョン教師が書いた<学校改造論>と<内申を変えてこそ学校が生きる>だ。この本は既存の教育論争に中間路線を強力な論調で提示している。

全教組は進歩勢力か? 理念と組織を前面に出すが、大衆と常識から遠ざかった勢力を進歩と見られるのか? イ・キジョンはそのような疑問を提起する。彼は「合法化以後、全教組が誠意を傾けた闘争のどこにも学校改革のための闘争はなかった」として次の通り話す。

「7次教育過程反対闘争,中等教師資格証所持者の小学校教師任用反対闘争,NEIS反対闘争,教員評価制反対闘争など合法化以後の大部分の闘争において私はドンキホーテを思い起こした。」

'改革ドンキホーテ’ではない。'保守主義ドンキホーテ’だ。イ・キジョンは全教組を愛する教師だ。だからこそ、そのように言うことができるのだろう。進歩新聞らは全教組をそこまで愛してはいなかったようだ。だから苦言を言えなかったはずだ。保守新聞らの全教組非難には悪意的なものが多かったが、普通の父母らをひきつけることができる内容の批判も多かった。私たちはどちら側にさらに関心を傾けなければならないだろうか? 国民を愚かだと見るのではないならば、いったい彼らが何を考えているのか分かろうと努めるべきではないだろうか?

改革・進歩陣営にはおかしな病気が荒れ狂っている。保守新聞らが非難する対象ならば、無条件に抱いて擁護しなければならないという病気だ。もうそのような方式ではいけない。むしろ批判を先行獲得しなければならない。全教組の問題は<ハンギョレ>紙面でさらに旺盛に指摘されなければならない。いや、少なくとも論争の対象としなければならない。保守新聞らを単に呪いの対象としていては、ブーメランをむかえてこちらが先に倒れる。

カン・ジュンマン全北大新聞放送学科教授

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/346874.html 訳J.S