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[朴露子ハンギョレブログより] 私はなぜ「大統領選挙」に無関心なのか?

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/50782

原文入力:2012/07/18 12:18(2964字)

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 私が最近頻繁に受ける質問の一つは、「来る大統領選挙についていかがお考えか」といった類のものです。大統領の名目上の権限が朝鮮王朝における国王の実質的な権限より遥かに多い社会では当たり前の質問なのかもしれませんが、正確に「大統領選挙」の問題のどの辺に注目しているのかと質問者に詳しく問い返すと、大概は「朴槿恵の政権獲得の阻止方法」程度で悩んでいる場合が多いようです。そのような時、私は質問者にあまりにも申し訳なくなってしまいます。なぜなら、私はこのような問題設定そのものにそもそも同意できないし、「朴槿恵を抑えて民主候補を押している」大統領選挙運動論に対しては無関心なのです。私にも大統領選挙をめぐる政局がいろいろと面白い可能性として見えたりするものの、私は大物候補たちの間に優劣順位を決め、「最悪を抑え次悪を大統領にしよう」という論理を到底受け入れることができません。

 勿論「朴槿恵の政権獲得」については個人的には本能的な脅威を感じざるを得ません。「維新精神」に透徹される方が間違って「大権」でも握るようになったら、私のようなやっかいな乱入者がたとえば「愛国歌を歌い太極旗に敬礼することは奴隷の道徳、個人としての自分自身に対する裏切り」などという話をしたら、もしかしたら国籍剥奪の危機にさらされるかもしれません。監獄へ入れられず長期の法廷闘争で立ち向かうことのできる国籍剥奪の危険などは実はたいしたことではありませんが、このような意識の持ち主が青瓦台を占領(?)すれば、拘束捜査で辛い目に合わされる民衆闘士たちもかなり出てくるという予想も可能です。アキヒロ統治期における「社労連裁判」、「資本主義研究会事件」等々より2~3倍の強さで「赤狩り」という韓国の統治者たちの伝統芸能(?)を楽しむことでしょう。労働者や撤去民の闘争には盧武鉉やアキヒロ以上に厳しいことはどうせ難しいはずなので、この辺に関する予想を私にはどうしてもできません。ところが、このような危険が山ほどあるといわれても、「維新の姫様」とその自由主義的なライバルたちとの間からは、いかなる本質的な違いも私は到底見つけることができないのです。

 姫様も盧武鉉の嫡子さまも皆「経済民主化」を歌っているものの、彼らの話している措置(循環出資の制限等々)で財閥共和国を一般的な国民国家に改造することは、肺炎で死に掛けている人を総合かぜ薬で治すことくらい不可能なのです。財閥の権力を制限しようものなら、財閥保有不動産に対する集中高率課税、企業税の大幅引き上げ、大企業と下請負業社間の取り引きへの国家の積極的な介入と下請負業社の利害を考慮した合理的な部品単価の調節、そして特別な場合(季節労働など)を除いた一般的な状況での非正規雇用の禁止などの、遥かに急進的な措置が必要でしょう。私が社会主義者とて窮極的に望むところは、財閥の解体と社会化、そして労働者、市民社会、住民、消費者、国家による企業の計画的な管理・運営ですが、現実的に少なくとも財閥を「規制」でもまともにしようとするならば、以上のような「反財閥政策」くらいは必要でしょう。財閥を育てた朴正煕の七光り候補も、財閥のタコ足式経済掌握を事実上傍観、傍助した「失敗した自由主義改革家」盧武鉉の威光をかざした候補も、この問題を解決しようがありません。つまり、民衆の二人の敵の間の選択のない「選択」に私たちがそこまで気を取られる必要があるのでしょうか。

 勿論さすがにアキヒロの大失敗を受けて「ビジネスにやさしい」をあからさまに歌う率直な(?)大物候補たちは今はいません。そこまで率直になったら、「福祉レトリック」競争で負けてしまいます。新自由主義に疲れた大衆は「福祉」という言葉を無条件に聞きたがるものであり、そのような需要があるだけに大物候補たちが「福祉」に対するありとあらゆるレトリックや「具体的な公約」などを供給しています。高校完全無償化、低賃金家庭出身大学生の授業料慮免除、無利子学資金貸出、国公立大学共同学位授与、就職願書提出時の学歴記載禁止等々……。まあ、保守政治家の口から出てきそうにない言葉ですが、このような表現が出てくるということは、「福祉」に対する民衆的な熱望がいかに強いかをよく示しています。ところが、公約とは実は口約にすぎないという事実(5年前の「747公約」をお覚えでしょうか。私たちはその間7%の成長を果たしたのでしょうか?)のほかに、これらの話を完全に無意味なデマとして受け入れざるをえないのは、まさにその部分性です。無利子学資金を貸し出してもらったところで、程度の差こそあれ、どうせ貧しい家庭出身の大学生が卒業してからまともな働き口が見つからずすぐの借金だらけの人間に転落するのは同じです。就職願書に学歴記載がされなくても、どうせ面接の際に大体は把握可能だろうし、親のお金で積み上げられた派手なスペック(海外言語研修等々)がなければ、貧乏人の子息たちにどうせ就業の門は針の穴です。怪物化した「名門」私立大学がエリートの多くを排出し、私立大学が全体の「大学業市場」(?)の70%以上を占める構造では、国公立大学のみを改革の対象にしても無意味です。「共同学位」が授与されたとしてもソウルでソウル国立大学に通った人々の先輩後輩のネットワークなどはそのまま残るでしょう。公共性など全くなく、公共部門が極めて未発逹で、私立大のような私的なマフィアたちが幅を利かせ、国家の煽ってきた非正規労働の拡大などで貧富の格差がメキシコのレベルまで大きくなり、狂的な競争の中で人々が死に行くこの地獄では、大物候補たちの歌う「福祉」は臨終の患者に軟膏を塗るようなものです。一体彼らの勝敗に私までがどうして心配しなければなりませんか。

 勿論、私にも大統領選挙戦には色々と「関心」はあります。民衆、すなわち労働者と農民の候補が遊説の中でこの体制は本質的に変革されなければならないことを人々にいかに説得力に披瀝することができるか、極右と自由主義者たちとの間の角逐が私たちの闘いとは無縁だという事実にどれだけ多くの労働者たちが気付き、大物候補たちに対する関心を切り捨て労働者候補に投票するのか、「大統領選挙」にすべての関心が注がれている状況で、労働者、民衆勢力がいかに団結し少なくとも民衆の間のイデオロギー的なヘゲモニーを掌握するためにいかにまともに働きかけることができるか等々の関心です。大統領選挙であれ総選挙であれ、いかなる選挙であれ、その結果はいかなるものであれ、その過程において私たちに発言をし体制に亀裂を加え人々の考えを少しでも変える「機会」は与えられるものです。ところが、窮極的には韓国民衆の運命は大統領選挙戦では決まらないでしょう。街頭、広場、ストライキの現場、学習する教室―このようなところで決まることでしょう。

原文: 訳J.S