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[朴露子ハンギョレブログより] 防御的暴力の限界線?

http://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9A%D0%BE%D0%BD%D0%BE%D0%BD%D0%BE%D0%B2,_%D0%92%D0%B0%D1%81%D0%B8%D0%BB%D0%B8%D0%B9_%D0%9C%D0%B0%D0%BA%D0%B0%D1%80%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87

原文入力:2012/03/02 05:27(3948字)

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 喉が腫れ上がり風邪で体調を崩してしまった状態で書いているせいか、なんとなく悲しい気持ちになります。中でも最も悲しい思い出は、この娑婆世界ではあまりにも残念なことに、個人の道徳律と集団の道徳律が必ずしも一致しないという点にかかわるものです。私のような人間は、個人的には極めて徹底的な非暴力主義を支持しています。たとえば、夜中の路地で強盗に私の財布とともに私の命まで狙われたら、私はおそらくあまり抵抗しないと思います。どうせ肉体をいつかは神様に返さなければならないからには、壊れてしまう前の、少しでもまともな時に返却するのもさして悪くない運命ではないでしょうか。一刀のもとに殺されるより、数年間にわたりありとあらゆる不治の病に苦しめられながらゆっくりと死んていった方がむしろ不運ともいえるでしょう。しかし、たとえば私と一緒に息子がその場にいたとすれば話はやや変わってくるでしょう。既に深刻な誤作動を頻繁に起こしている自分の肉体こそ大して惜しくはないものの、まだこの五蘊仮合の儚さをかみ締める機会も充分に与えられていない息子の命をも軽々と渡すことはできそうにありません。すなわち、私一人ではなく、二人という「小さな集団」でも出来上がれば、私の非妥協的で徹底的な非暴力主義にも少し疑問符がつきます。子供の命を守るための最小限の抵抗をあきらめたら、これは間接殺人の手助けになりはしないでしょうか。そして集団が大きくなり暴力の規模が大きくなればなるほど、たとえ私個人は最後まで非暴力原則を守りぬこうとしても、防御的な暴力を批判することはさらに難しくなります。個人的には自分の信念通り、銃を手にとることはせずに、アメリカ帝国主義のような最悪の敵との武装葛藤が起きても、病院での非戦闘服務のようなことを志願すると思いますが、だからといってアメリカ帝国の悪辣な占領政策に武器を持って反旗を翻したイラクやアフガンの人々をどうして非難することができるでしょうか。個人的に人を殺すことができないという、同じ良心の論理で、殺人魔アメリカ帝国の奴隷として死のような生を生きることはできないとして立ち上がった闘士たちを責めることは到底できないのです。

 それでは、ファッショドイツやアメリカ帝国のような、暴力で生きる悪魔的な政治体に対する武装防御は一応正当だとしましょう。だとすれば、その防御のすべての形態は無条件に正当でしょうか。たった今私の頭からどうしても離れないのは、何年か前にバルチック共和国のひとつであるラトビアで大きな問題として浮上した「赤いパルチザンのワシリー・コノノフ」事件でした。貧農出身のワシリー・コノノフ(1923-2011: )は、ある面においては「模範的なソ連人」に近い人でした。被搾取階級出身、コムソモール(共青)の活動家、第二次世界大戦の際に14のファッショ軍の輸送列車を直接爆破した優秀なパルチザン、戦後の内務省の模範的な服務員……。問題になったのは、1944年5月29日、ラトビアの小さな村マジエバーツ村で起きた「良民私刑事件」でした。以前その村の一部の住民たちがファッショ占領軍にパルチザンたちを渡したことがあったため、そのことに対する「処罰」としてコノノフ揮下のパルチザン小部隊がその村人を9人も殺しました。その中の4人は焼き殺されており、焼き殺された「親ファッショ分子」には姙婦まで含まれていました。焼き殺された、正確に言うと、その家ごと焼かれた女性の夫たちは、たとえ「親ファッショ活動」をしたとしても、その妻子に対するこうした行為は正当だったのかということは、戦時においてもいくらでも申し立てできる疑問でした。しかし、コノノフは「優秀なパルチザン」として名声を博していただけに、ソ連時代にはこの事件に対する捜査らしい捜査は行われなかったし、ソ連崩壊後、独立したラトビアでコノノフを捜査し裁判に掛けた際は、「赤狩り」やロシア人であるコノノフを狙ったラトビア民族主義の色がやや濃かったのです(すべての被害者たちの民族成分はラトビア人でした)。コノノフに対する非難と裁判に反ロシア的な民族主義の色彩が濃かっただけに、ロシア国内ではそれに対する民族主義的な無条件擁護の雰囲気も極めて強かったのです。結局、「防御的暴力の限界」をめぐって考察されなければならなかった歴史的な事件は、ラトビア民族主義とロシア民族主義の争いになってしまったのですが、コノノフが死んで、捜査や裁判など、この事件がこうして終決した今こそ、民族主義などを乗り越え、極めて根本的な問いを立ててみなければなりません。反ファッショ抵抗という、当然正当に見える場合においてさえも、果して防御的暴力はどこまでが正当なのでしょうか。

 単刀直入に言うと、私は反ファッショ抵抗と言っても、暴力を越えた抵抗こそが最高だと思います。ファッショ軍人たちの多くも、パルチザンたちに銃殺され焼き殺された「あの村」の人々の多くも、結局は労働者や零細民、中農、貧農たちでしたが、ファシズムという欺満的なイデオロギーを越え、彼らの階級的で人間的な良心に訴えて彼らの認識を変え、善の側に引き付けることこそが最善です。問題は、幼い頃から肉体と精神で習得したあらゆる国家主義的、民族主義的な偏見がそんなに容易に頭から消せるのか、その偏見を無くそうとする「我らの味方」が敵の軍人たちにそんなに容易に接近できるのかということです。たとえば、朴正煕時代にアメリカ帝国の補助的傭兵としてベトナムに赴いた南韓の軍隊のことを思い浮かべてみましょう。ソ連のアーカイブに保管されている文書によると、侵略戦争の不当性と朴正煕政権の犯罪性を結局認めるようになった何人かの兵士たちが結局は侵略をあきらめて北ベトナム側に降伏し、謝罪するなど(後に北朝鮮に行って暮しました)勇敢な「脱営」を敢行しましたが、多数の「帰ってきた金上士」たちは、今も侵略の不当さを認めることは難しいのです。自国民たちに福祉らしい福祉を施したことのなかった朴正煕政権でもこれほど忠誠な「殺人機械」たちを生産できたとすれば、種族的ドイツ人たちにかなりの福祉を施したヒトラーに対する幾多のドイツ人たちの忠誠を、果して宣伝だけで崩すことができたでしょうか。つまり、最善と考えられる階級的立場による非暴力的な宣伝扇動は、必ずしもあらゆる状況において現実的ではないのです。

 ということで、残るのは武装抵抗の問題です。しかし、理想的には、武装抵抗の場合においても階級的・人道主義的な原則だけは守られなければなりません。敵側の「軍服を着た労働者、農民、零細民」たちは今はたとえ敵の理念的なヘゲモニーに操られ武器を手に侵略を起こしたとしても、彼らは自分たちの人間性や階級成分によりいつでも「善の側」にもなりうる「潜在的な我々」であることを忘れず、彼らに対する暴力はたとえ避けられない防御的な暴力だとしても、やはりその本質においては悪であるということを知り、その暴力を可能な限り最小限に食い止め、何よりも敵軍における「革命化」の可能性に集中しなければなりません。こうすることは最善とまではいえなくとも(暴力はその本質においていかなる場合にも「最善」にはなりえません)、少なくともある場合には「次悪」にはなりうるのではないかと思います。問題は、ファッショのような無慈悲な敵を既に3年も相手にし、毎日毎日死に直面し敵の拷問に関する話を聞かされ、敵の残酷性を目撃しつつ反対側への恐ろしい憎悪をかきたてていたコノノフのパルチサンたちには、最早このような階級論的な「革命的意識化を中心とした反侵略戦争の原則」などは忘却されてしまっていたわけです。

 「正当な防御」といっても、戦争の渦中では双方が似ていく部分は確かにあるわけで、「正当な防御」をする人々が侵略者たちの悪習を、一部とはいえ、いくらでも倣うことができるということは、「コノノフ事件」が教えてくれた悲劇的な真実です。たとえ「善の側」に立っていたとしても、3年間もファッショ侵略の地獄で生きていたコノノフのパルチザンたちは、最早焼き殺された妊婦の苦しみに無感覚になるほどに、人間の生と死、苦痛に鈍感になったところがあったのです。反侵略戦争において正当防衛の側にもいくらでも「問題」は起りうるため、最も望ましいことは革命により当初から侵略戦争が起こりうる可能性を遮断することです。一つの革命は多くの戦争を防ぐことができ、数え切れないほどの命を救うことができ、「我々の側」の人々の戦時における残酷化をあらかじめ予防します。革命の肯定的な効能が多いだけに、侵略戦争を予防しうる革命を起こすということは至難なことです。とはいえ、それだけに人々を救いたい一念で戦争機械である資本主義国家の解体のために、弛まぬ努力をしていかなければなりません。

原文: http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/41908 訳J.S