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[朴露子ハンギョレブログより] 1968年の意味

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原文入力:2012/02/24 01:22(3533字)

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 何週間か前に国内からノルウェーをしばらくの間訪れていた教師の方々と話したことがありました。その方々にとってノルウェー的な教育の現実は多くの面において見慣れないものでした。授業の際、教師の質問が気に入らなければ、「どうしてそんな質問をするのか」と「根拠の提示」を要求し学校の運営に積極的に参加する中高生から、出席の義務もなく教授に対する「服従」のようなものをまったくしようとしない大学生たちまで、すべてが耳新しいものばかりでした。学校における体罰はもちろん、家庭内の体罰をも厳禁するノルウェーの1987年の「親と子に関する法律改正案」も極めて生硬なものに映りました。それで、私に一つ当然のような質問が飛んできました。「このノルウェーは一体いつから、いかなるきっかけでこんなに自由に満ち溢れた社会になったのか」と。考えてみれば答えは明らかです。概して1968年の全世界的な革命の気運がノルウェー社会で、特に青年層の間で「権威主義退治運動」を促し、運動の展開過程で大学における出席の義務から体罰まで次第に廃止、禁止されていきました。68年革命は資本主義を失くすことはできなかったものの、西欧人の人生を根こそぎ変えました。実は、私が今ネクタイを締めずに風邪薬などでしみの付いたワイシャツを着て大学の研究室に座って作業できるのも、私にあれこれ尋ねたい学生たちがいつでも私のドアをたたいて「よっ、ウラジーミル…」と話しかけることができるのも、私が毎朝一番に14ヶ月の娘を保育園に預けて職場に向かうことができるのも、すべて68年革命の「結果」なのです。68年以前のヨーロッパの大学教授はいつも正装をし学生たちにはなかなか会ってくれず、しかもfirst name(個人名)で呼ばれたりもせず、育児労動もしない、遥かに権威主義的で高踏的な存在でした。まあ、そんな教授を見物したければ、68年革命を経ていない南韓に行けば、どの大学へ行っても思う存分見物できます。68年が作り出した「相違」を実感するためにです。

 68年が文化や日常などといった我々の現実の「ソフトな」部分をすっかり変えていったのです。性の解放や同性愛などへの肯定的な再認識、障害者に対する同等な視覚、人種的な少数者たちとの連帯のみならず、たとえば伝統的な教会などの既成宗教の漸次的な退出も、1968年が一つのきっかけとなってなされました。現在ノルウェーでは生粋のノルウェー人の約4%だけが定期的に教会に出席しており、大学社会では教会の教理や儀礼に縛られている人などはいくら探しても見当たらないほどです。だからといって宗教性がないわけでは決してないのです。ただし、国家と制度的に癒着してしまい、アフガン侵略に反対一つろくにできない「公式の」教会が、キリストよりキリストが声高く批判した律法学者たちと遥かに親しいという点だけは最早普遍的に認知されています。このようにあらゆる面において私たちはパリの「赤い5月」に大きく負っているのです。1789年の「人間と市民の人権宣言」、「自由、平等、友愛」が19世紀を思想的に牛耳ったように、1968年の「Ni Dieu ni maître!」(「神もなく主人もなく!」(1968年5月のある落書き、オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805~1881)の1880年のアナーキスト的な雑誌のタイトルから取ったらしい)は、今日まで人類の一つの解放機制として機能してきたのです。

 ところが、「ソフトな」部分は大きく変革されたとしても、「革命」としての1968年は敗北したし、その敗北は1968年を組織的に率いた「オールド・レフト」の限界をそのままあらわにしました。労組を通じて数百万人のフランスの労働者たちのストライキを率いた共産党は、いくら「革命」を叫んでも、現実的に望んだのは賃金引き上げなどといった資本と国家の譲歩と、究極においては社会党などの他の左派政党との共同連立政権樹立にとどまったのでした。結局、1981~1984年の間の社会党主導の連立内閣でフランス共産党は1947年以来初めて入閣して「政府」になることはできたものの、いかなる「革命」も起きなかったし、その後は共産党の人気だけが容赦なく落ちてしまいました。「革命」というレトリックで飾られた改革主義路線は、結局その限界を如実に顕したのです。いくら投票によって政権を握っても、「脱資本主義」を志向する威圧的な大衆運動を導かない限り、左派政党は結局いかなる急進的な措置も取ることができないのです。急進的になれば官僚たちが組織的な妨害を始めるし、資本家たちが大規模な資本の海外流出などで立ち向かうからです。官僚や資本家たちの抵抗を粉碎するためには、「資本主義」/「議会主義」の枠を越えた措置をも執る用意ができていなければならないのですが、半世紀を超えて体制内政治に慣れていたフランス共産党にはそうした準備はまったくできていなかったのです。アナーキストやトロツキー主義者などといった群小の急進派たちは共産党を圧倒する「超左派的な」レトリックを駆使したものの、彼らの労働者への影響力や組職能力、被支配階級の動員能力においては共産党と労組に大きく及ばないだけに、猛烈な街頭闘争や革命的な出版物の発刊以上のいかなる「革命」も起こす能力はなかったのです。でっかい「オールド・レフト」の政派たちが社民主義レベルの改革主義に退歩し、小さい「オールド・レフト」の政派たちがサークルレベルを脱しえず大衆性をまったく獲得できなかったことが1968年の悲劇でした。

 「オールド・レフト」の限界もあらわになったものの、だからとって「新左派」が善戦をしたわけでもありませんでした。「搾取」よりは特に若者、学生、種族的な少数者などの「疎外」を問題にし、「搾取」のみならず「疎外」もない、徹底した民主的な参加型の脱資本主義的社会を夢見て、熟練工という被搾取階級の「核心」ではなく、若い失業者などの「周辺部」にその視線を転じた「新左派」の問題意識は極めて時宜にあったものでした。ギリシャのように若者の半数以上が働き口を見付けられず、「搾取」される可能性さえも失い、果てしない疎外の中で生きていかなければならず、収入の良い正社員たちも官僚たちの独占する実質的な政治権力、資本と国家が独占する経済権力からの疎外を乗り越えようとしている社会では、「疏外」という観点こそが資本主義批判の出発点になることは自然でしょう。問題は、世界の周辺部の大衆から西側の都心の周辺部の人々まで、疎外された人々をいかに糾合すべきか、資本主義にいかに致命打を加えるのかという戦略、戦術なのですが、この部分においては「新左派」はひたすら無力なだけでした。その無力感の現われの一つがドイツ、イタリア、日本で発生した一部の「新左派」による武装攻撃への転換でした。大衆に支持される武装闘争の戦術は成功的になりえても、そのような支持を確保できなかった孤立した少数の「英雄」たちの闘争は必敗に終わるのみならず、資本主義的なデマに利用されるだけです。結局、1968年と後続の「事件」などは旧左派と新左派のそれぞれの限界を余さず露呈してしまいました。

 おそらく資本主義の克服に窮極的に成功する未来の左派は、今日の「オールド・レフト」と「ニュー・レフト」の組み合わせであろうし、双方の長所を取り入れることでしょう。少なくとも1968年以降、一つだけは明らかになりました。当時のもう一つの有名な落書き通り、「Ceux qui font les revolutions a moitie ne font que se creuser un tombeau」、革命の際に半端者たちは結局は自分の墓を掘るだけということです。体制とのいかなる妥協も結局は「墓」、私たちの経験からすれば、1980年代の反動と新自由主義の導入などで終わってしまいます。しかし、革命を最後まで引っ張っていくためには左派は極めて大衆的で、極めて包括的で、しかも周到に用意しなければなりません。そうでなければ、妥協を許さず最後まで進む勇気は生まれてこないでしょう。

原文: 訳J.S