原文入力:2012/01/27 21:37(1641字)
チェ・ソンジン記者
一週間の新聞の内で唯一2日間にわたって読まなければならない新聞がある。 土曜日版だ。 大多数の日刊紙が日曜日には新聞を出さないためだ。
日曜休刊制が根を下ろしたのは韓国新聞社全体として見た時には比較的最近のことだ。 1898年我が国最初の日刊新聞である<毎日新聞>が出てきて以来、新聞発行体制の基本は週7日発行だった。 1924年、月南 李商在(イ・サンジェ)先生が社長であった時期の<朝鮮日報>は初めて一日に夕刊4面、朝刊2面を同時に出す朝夕刊制を採択し、これを業界に流行させもした。 一年無休で朝夕刊を発行しなければならなかった新聞労働者を過労から解放させたのは朴正熙軍事政権だった。 軍事政権は1962年7月31日に発表した‘言論政策施行基準’で新聞が朝刊または夕刊を選択し、一日一回だけ新聞を出すようにする単刊制と週6回の発行を義務化した。 新聞が休む日は今のように日曜日ではなく月曜日だった。(夕刊は日曜日分)
週7回発行慣行は1987年民主化の風と共によみがえった。言論民主化の影響で報道機関間の競争が激しくなり1989年7月3日から<韓国日報>が月曜版を復活させた。 この新聞は1991年12月16日には朝夕刊発行まで復活させ新聞業界を無限競争時代に導いた。
週7日発行と朝夕刊制は迅速な情報提供という側面からは明らかに望ましい方向だった。 だが、新聞製作条件はそのままの状態で各新聞が量的競争に飛び込んだ結果、紙面の質が落ちるという副作用があった。 キム・ジュオン言論サランバン監査は「当時も日曜日には外信を除けば記事のネタが殆どなかった」として「日曜日の新聞は時宜性のない記事や含量が落ちる記事、娯楽性の記事で満たすことが多かった」と説明した。
1997年12月初めに襲った‘IMF外国為替危機事態’は新聞業界にも大きな変化をもたらした。 苛酷な経済危機で新聞業界は同月23日、自律的減面を決議し、1998年7月4日から<朝鮮日報>と<中央日報>、<東亜日報>を始め、完全に日曜日の新聞を休刊するに至る。 日曜日の新聞はその後よみがえることはなかった。
外国為替危機以後、新聞は量的競争から抜け出し新聞の質を優先する戦略に反転した。 目につく流れはセクションおよび週末版紙面の登場だった。 特に2000年代に入り週5日制に関する社会的議論が本格的に始まり、言論界は週末版と呼ばれた紙面をリリースし始めた。 2002年1月4日、東亜日報が先に毎週金曜日の16面‘ウィークエンド’(Weekend)という名前の別途セクションを送りだした。 次いで同月10日と18日<文化日報>と<毎日経済>はそれぞれ木曜日分と金曜日分で16面週末版‘休’と‘ライフ アンド カルチャー’を出した。
週末版を別途セクションにまとめて発行する流れは最近も続いている。 朝鮮は土日セクションという名前で‘Why?’と‘ウィークリービズ’(Weekly BIZ)を、中央と東亜はそれぞれ‘ジェイ’(j)と‘オーツー’(O2)を出している。 韓国日報が‘H’という8面週末エディションを本紙内に組み入れる形態で発行しているという点程度が違うくらいだ。 内容面でも既存新聞の週末版は平日分に比べ旅行とレジャー、ショッピング、生活情報など軽いニュースを主に扱うという特徴がある。
‘知的満足’と‘深みのあるニュース’をキーワードに1面から24面まで土曜日の新聞全体を新しく見なおした<ハンギョレ>土曜版は相対的に軽いニュースに重点を置いてきた今までの新聞の週末版とは明らかに異なるわけだ。
チェ・ソンジン記者 csj@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/516410.html 訳J.S