原文入力:2011/12/14 19:38(1858字)
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‘鉄鋼王’と呼ばれたパク・テジュン氏が亡くなった。ポスコ(浦項製鉄)が今日、世界屈指の鉄鋼会社に位置した歴史は彼を置いては語れない。当初、迎日湾(ヨンイルマン)の荒野に総合製鉄所を建てようとしていた計画は1960年代後半、米国・英国・ドイツ・イタリアの鉄鋼会社で構成された国際借款団を通じて資本と設備を導入する方向で推進された。だが、採算性が不透明だという理由で欧米の会社が投資を迷ったために製鉄所建設は失敗に終わる危機に置かれた。
この頃40代初盤のパク・テジュンが手助けを要請した人は日本政・財界の精神的指導者として君臨していた安岡正篤であった。陽明学に精通した東洋思想学者で日帝時に右翼運動や軍部に影響を及ぼした安岡は日本の崩壊以後しばらく公職追放措置にあったが、まもなく以前の地位を回復した。最近の流行語でいえば自民党有力政治家や財界人の水面下の‘メント’であった。 現在の明仁天皇の年号である平成は彼が生前に考案したものと知られた。
年齢がほとんど30才異なるパク・テジュンが訪ねてきて苦衷を吐露するや安岡がその場で電話をかけて話をつないだ人が稲山嘉寛だ。稲山は我が国(韓国)の全経連に相当する経団連の会長を務めた財界の大物だが、当時は八幡製鉄の社長だった。彼は1970年には富士製鉄と合併して世界的鉄鋼会社である新日鉄(新日本製鉄)を設立し3年間にわたり社長として在職し、再び会長として9年を過ごした。彼が日本の他の鉄鋼会社を集めてパク・テジュンの構想を支援してくれた。
八幡製鉄の前身は日本が朝鮮を侵略し植民地にする前哨戦となる日清戦争の賠償金で作ったものだ。日本は老いた帝国 清を制圧した後、巨額の賠償金を剥ぎとり利子まで含めれば総額が当時の日本の年間予算の2倍を越えたという。その金で陸軍と海軍の常備軍の規模を大幅に増やし、兵器・軍艦の自給調達のために九州八幡に官営製鉄所を作った。1901年から操業を始めたこの製鉄所は日帝の植民支配と侵略戦争を支える原動力になった。 軍備拡充や産業建設だけではない。 名門大学の一つである京都大学の前身である京都帝国大学も日清戦争の賠償金で建てられた。したがって近代日本は朝鮮を戦場として蹂躪し無惨に殺害された朝鮮人の犠牲の上に建てられたといっても過言ではないだろう。
昨日、日本大使館前で軍隊慰安婦ハルモニに対する日本政府の謝罪と補償を要求する水曜デモが開かれた。1992年1月、宮沢喜一当時総理の訪韓を控えて始まって以来、何と1000回目だ。単一主題で集まる市民集会としてははるか以前に世界記録を更新した。当時、宮沢総理の訪韓結果に対しては日本で不平が多かった。総理就任以後、初めての訪問地として韓国を選択し新しい韓-日関係を開こうとしたが、慰安婦問題が突出したせいで各所で謝罪発言を行い恥さらししただけということだ。
しかし慰安婦問題は突然に起きたわけではない。植民支配の悪行に加え、戦時強姦、女性差別問題などが複合的に絡まり被害者が公開的に名乗り出ることが非常に難しかったという事情があった。慰安婦問題が本格的に公論化されたのはユン・ジョンオク教授が1990年1月<ハンギョレ>に連載した踏査記が大きな役割を果たした。以後、キム・ハクスン ハルモニが名前を明らかにして日本の法廷に提訴を行うやフィリピン・台湾・タイ・オランダなどの被害女性が証言に立った。この問題は国連など国際舞台に広がり戦時性奴隷を強要した蛮行として糾弾され、2000年12月には東京で日本軍性奴隷問題を審判する女性国際法廷が開かれた。
だが、日本政府は動こうとしなかった。真剣に対応するどころか右翼の反発により教科書記述すら消す後退を示している。日本政府が頼みとする伝家の宝刀は1965年の韓-日協定で植民地支配のすべての問題が完全に永久に解決されたということだ。 最近、我が国社会の一部で協定再改正を要求する運動が起きているが反応は生ぬるい。 一方ではニューライトが植民地近代化論を主張したりもしている。我が国社会の赤裸々な姿だ。
キム・ヒョスン論説委員 hyoskim@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/510163.html 訳J.S