登録 : 2013.05.04 10:03 修正 : 2013.05.04 18:40

‘下働きたち’が歴史の主人になる

1979年10月16日釜山大で起きたデモはキム・ジェギュ中央情報部長が大統領を銃で撃ち殺すという驚くべき台風を呼び起こす蝶の羽ばたきになった。 釜馬(釜山-馬山)抗争の時、街頭行進を行うデモ隊を市民たちが眺めている。 釜山民主抗争記念事業会 提供

4年間ただの一度のデモもなく
"維新大学" 自嘲した釜山大
恥ずかしさに集まった大学生200人が
5万人の市民に膨れ上がった
非常戒厳で大々的鎮圧するや
今度は馬山(マサン)が動いた

アカすり、工員、靴磨きなど
‘20代前後の不良性向者’たちが
大学生を装って参加し
庶民 自営業者までが加勢した
背後勢力を見つけようとした政権は
南民戦と抗争を結び付けようとした

 1979年10月18日朝、朝刊を開いた人々は驚いた。 釜山に18日0時を期して非常戒厳が宣言されたという。 去年の夏、YH事件が起きた後で金泳三新民党総裁に対する総裁職務停止仮処分申請が下り、2週前の10月4日にはついに金泳三総裁が国会から除名される騒動まで起きるなど政局は大きく揺れ動いていたが、非常戒厳は本当に唐突なことだった。 7年前の10月17日、突然に非常戒厳で始まった維新体制はちょうど7年後に突然の非常戒厳で終幕に向けて突っ走り始めた。 誰も2日前の10月16日に起きた釜山大学の小さなデモが5万の群衆が参加する激烈な街頭デモに発展するとは予想できなかった。 非常戒厳を呼び起こしたこのデモが中央情報部長が大統領を銃で撃ち殺すという驚くべき台風を呼び起こす蝶の羽ばたきだったとは誰も考えられなかった。 あまりに途方もない結果を持たらしたために、その歴史的意味がきちんと糾明されていないのがまさに1979年10月の釜馬抗争である。

梨花女子大生が男性器の絵とはさみを送った?

 釜山大学の象徴は虹門にかかった自由の鐘と鷲塔のてっぺんの鷲だった。 釜山大生は釜山大学の2大不可思議が鳴らない自由の鐘と飛ばない鷲だと自嘲していた。 1975年11月、在日同胞留学生キム・オジャを中心に捏造された学園スパイ集団事件で釜山大学の学生運動が焦土化して以後、学内には4年間に印刷物一枚播かれることはなかった。 今は想像もし難いが、当時の大学キャンパスには‘警察’どもがあちこちに巣を作っていたし、'ローマ軍の軍服' を着た戦闘警察官を乗せた鳥小屋バスはキャンパス内の道路に長く列をなして駐まっていた。 毎日毎日息を殺して鳥小屋バスと警察官の間を目を伏せて神妙に登校しなければならなかった若い学生たちの侮蔑感と恥辱感は日増しに深まっていた。 4年間、デモの一度もなく、自ら‘維新大学’と自嘲していた釜山大学では 「梨花(イファ)女子大生が男性器の絵とハサミを送ってきた」というデマがひそかに広がりつつあった。 梨大生が実際にハサミと絵を送ったわけではなかったが、当時デモもできない大学の運動圏学生たちは自らこのようなデマを作ってまき散らし、自分たちを叱責していた。

 1979年10月15日午前10時になろうとする頃、釜山大校庭では10時に図書館前に集まろうという印刷物がまかれた。 印刷物をばらまいた学生たちは図書館前で苛苛しながら人々が集まるのを待ったが学生たちは殆ど集まらなかった。 10時30分頃、計画が失敗したと断定した主導者たちが学校を抜け出た後に図書館前の芝生と階段には学生たちが一人二人と集まって300人余りに達した。 彼らは何か劇的な状況を期待して集まったが、大学に入学してからスローガンを叫んだことも、スクラムを組んでみたこともない学生たちだった。 皆が何かをしなければならないとは考えていたし、誰かが立ち向かってくれることを切に願っていた。 しかし、自分が暴風前夜の寂しさを破る第一歩を踏み出すことはできずにいた。 息詰まるような時間を過ごして仕方なく家へ帰る足取りはあまりにも重かった。 涙が出るほど恥ずかしかった。

 翌日の10月16日、再び別の学生たちが印刷物をばらまいた。 前日の失敗に対する反省に立って、経済学科のチョン・グァンミンは学生たちが多く集まっている講義室を回って両方の拳を振り上げながら「あの維新独裁政権に対抗し、我々全員が血を流して戦おう」と熱弁を吐いた。 初め200人余りに過ぎなかったデモ隊はまもなく2000人に増え、市内進出を狙い正門へ向かう時にはその日登校した学生の半分を越える5000人に膨らんでいた。 警察の頑強な封鎖に阻まれ停滞した学生たちは旧正門脇の塀を力いっぱい押した。 時には欠陥工事も民主化に寄与するのか、力なく崩れた塀の外に学生たちは集まり始めた。 学生たちがバスに乗ると案内嬢はバス料金を受け取らず、運転手は励まし、乗客たちは手を握ってくれた。 学生たちが市内に進出すると釜山大学校当局は学校の車でデモ現場に行き学生たちを説得するために教授たちを集めた。 この時、ちょうど故郷の釜山に来ていた文教長官パク・チャンヒョンがあたふたと釜山大に駆け付け、教授たちに 「今回の事態は全面的に教授の皆さんの責任だ。 御用と言われて何を怖気づいているのか。 誇らしい御用になれ」と一席ぶった。 演説途中で秘書官が息を切らせて走ってきてメッセージを伝えるや慌てたパク・チャンヒョンは演説を中断してあわてて走っていった。 昌善洞(チャンソンドン)派出所が学生たちによって燃やされているということだった。

 携帯電話のない時期だったが、情報は速かった。 釜山大生たちが街頭に進出したという便りが伝えられるや東亜(トンア)大と高麗神学大の学生たちも市内に集まった。 警察が鎮圧すれば学生たちは複雑な路地に逃げ、再び集まったりした。 市民は1960年4・19以後、およそ20年ぶりに大規模街頭デモを行う学生たちに拍手して応援した。 昼間のデモは学生たちのデモだったが、夜になると多様な階層の市民らがデモに参加した。 規模も驚くほど増えて5万を超え、様相も想像を超えるほど激化した。 誰も予想できなかったデモは翌日の17日にも続いた。 16日夜には派出所11ヶ所と報道機関1ヶ所、17日夜には慶南(キョンナム)道庁、中部税務所、警察署2ヶ所、派出所10ヶ所、報道機関3ヶ所がデモ隊の襲撃を受けた。 釜山市民は維新7周年をこのように激しく記念してくれた。

空輸部隊と海兵隊の残忍な鎮圧

 デモ隊の襲撃を最も多く受けたのは市民が維新権力の最末端触手と見なした派出所であった。 市民は派出所を占領すればバイクやパトロールカーを叩き壊し、朴正煕の写真を引き剥がし踏みにじって火を点けた。 デモ隊のもう一つの攻撃対象は言論人と報道機関であった。 特に17日付新聞に釜山市内で繰り広げられた16日の激烈なデモを正しく報道せずに10月維新7周年という事実だけを強調したので市民の怒りは極に達した。 当時ある記者は「記者身分であることを明らかにしてもデモ隊はデモ隊なりに、鎮圧隊は鎮圧隊なりに記者にめちゃくちゃに暴行」したと苦衷を吐露した。 KBS釜山放送局と5・16奨学会の手に渡り御用言論になり下がった釜山文化放送と釜山日報はデモ隊の攻撃を受けたが、維新体制に批判的だったキリスト教放送は無傷だった。 当時、釜馬抗争を密着取材したチョ・カプジェはデモ隊が「標的とした報道機関はそれなりに正確に選別されていたという評価を記者社会では受けていた」として「民衆の怒りは爆発的だったとは言え、決して盲目的ではなかった」と評価した。 群衆は「夜陰の匿名性の中で抑圧されていた自我の解放感を遺憾なく噴出」した。 派出所を襲撃したある若い労働者は「スカッとしました。 まだ若いのに怖くも無く、本当にこれで世の中が、アー、変わるんだな。 そんな考え」を抱いたと言ったし、また別の参加者はスローガンを叫んで石を投げ 「何と言うか、うっとりとさえするようなそんな雰囲気」を感じたし「喜びを越えてうっとりした感情」に包まれたと回顧した。 チョ・カプジェによれば「多くの取材記者たちはその時の雰囲気を‘祭り’と表現」したという。

 5年間デモが無かったために経験が不足するのは警察も同じだった。 10月16日釜山鎮(プサンジン)警察署機動隊が市内に出てきた学生たちと初めて対峙したのは東莱(トンネ)温泉付近のミナムロータリーだったが、警察はデモ鎮圧のために出動したのに盾を持ってこないという致命的な失敗を犯したという。 学生たちが近隣工事現場の小石を投げると警察の防御線は壊滅した。 10月17日午前、内務長官ク・ジャチュンはデモ鎮圧失敗の責任を問い、釜山市警局長イ・スヨンを解任し、デモ鎮圧の専門家である陸軍士官学校8期同期のソン・チェグンを後任に任命した。 しかし警察がデモ鎮圧する責任を務める時間は長くは残っていなかった。 朴正熙は18日午前0時を期して釜山一円に戒厳令を宣言したのだ。 釜山に投入された空輸部隊と海兵隊は、無慈悲にデモを鎮圧した。 戒厳軍が振り回したこん棒に殴られ重傷者が続出した。 「帯剣したM-16を振り回し、催涙弾を発射する空輸部隊の無慈悲な鎮圧にデモ隊は散り散りになり無数の市民が負傷して釜山市内は再び‘強要された沈黙’に陥った。「デモは激烈だったが内務長官ク・ジャチュンは警察力でデモを鎮圧できると判断した。 現地を管轄する2管区司令官チャン・ソンマン少将も強いて軍を動員しなくとも事態を収拾できると明らかにした。 それでも朴正熙は非常戒厳宣言という過剰対応をした。 いかなる挑戦も容認できないという強迫観念に陥った朴正熙は時間の経過と共に正常な判断力を失いつつあった。

 空輸部隊の残忍な鎮圧で釜山のデモはひとまず静かになった。 今度は馬山(マサン)で大々的なデモが発生した。 馬山は4月革命の導火線となった3・15義挙が発生した地だが、朴正熙の長きにわたる忠僕であり慶南(キョンナム)大の事実上の教祖であったパク・ジョンギュの故郷でもある。 慶南大の学生たちは初めてデモに出る時、3・15義挙犠牲者たちに「先輩、愚かな後輩を叱って下さい。 私たちは全国の大学生が維新憲法撤廃デモを行っている時、学校当局の悪だくみで‘維新賛成デモ’をしてしまった愚かな後輩です」と黙祷を捧げた。 馬山のデモは釜山よりさらに激烈だった。 デモ隊は1960年3・15不正選挙当時に自由党舎を攻撃したように、今回は共和党舎を打ち壊し 「パク・ジョンギュ 犬××、ぶち殺せ!」と叫びながら彼の豪邸に押しかけ石つぶてを浴びせた。 デモ隊は釜山と同じように市内各所の派出所を襲撃し、朴正熙の写真を引きはがし、破り踏みにじった。 釜馬抗争で死亡者が発生したといううわさは永く飛び交っていたが、2011年になって事実であることが確認された。 警察の報告書に「左目にアザができてぷっくり腫れた状態で(鼻と口から血を流して)」変死体で発見されたと記載されていた人の身元が遺族の提示した戸籍謄本の死亡理由等を通してユ・チジュン(当時51才)氏であることが確認されたのだ。 馬山でも激烈なデモが続くと維新政権は10月20日正午を期して馬山と昌原(チャンウォン)一帯に衛戍令を発動した。

 釜山と馬山でのデモで、釜山では計1058人が連行され66人が軍事裁判に回付され、馬山では505人が連行され59人が軍事裁判を受けることになった。 朴正熙は10月18日に戒厳令を宣言し「分別のない一部学生たちと、これに結集した不純分子」が暴れまわったと言い、治安本部はデモ様相を見る時 「偶発的な群衆デモの行動ではなく組織的な暴挙」だとし 「組織的な不純勢力が介入した兆候が濃厚」だと主張した。 道を歩いていて愛国歌が流れれば立ち止まり、反共決起大会に動員すれば金日成人形の火刑式を上手にやってのけていた善良な市民たちが一日で‘暴徒’に急変し派出所を打ちこわし、朴正煕の写真を燃やしたことについて維新政権は何とかしてそれなりの説明を出さなければならなかったわけだ。 そこには背後勢力の存在が必要だった。 当時釜山保安部隊長として戒厳下の合同捜査本部長だったクォン○○の証言によれば、中央情報部から某局長が訪ねてきて「南民戦の組織図を私に渡しながら、南民戦関連者が釜馬事態を起こしたと見られる。 これに合わせて捜査して下さい」と頼んだと言う。 当時連行された多くの人々が10月初めに摘発された南民戦と釜馬抗争を無理に結び付けようとする維新政権の企みのために惨い拷問を受けた。 釜馬抗争に関連したもう一つのハプニングは馬山警察署長チェ・チャンニムが、デモ隊が私製銃器を使ったのを摘発したと発表したことだ。 取材記者によればこの私製銃器とは、ただおもちゃの鉄砲に火薬を入れて発射した水準のものであったということだ。

1979年釜山・馬山と1980年光州(クァンジュ)の関係

 1979年10月、よりによって釜山と馬山で激烈な反維新デモが起き、1980年5月にはよりによって光州(クァンジュ)で激烈な民衆抗争が起きたことは、金泳三と金大中というその地域が輩出した政治家の存在を抜きには説明できない。 もちろん釜馬抗争や光州抗争の勃発理由を金泳三の除名や金大中の逮捕に単純化させることは大きな誤りだ。 しかし、この時から30年近く続いた彼らの影響力を考慮する時、釜馬抗争や光州抗争が両金という変数と無関係と見ることはできない。

 釜馬抗争と関連して、更に厳密な研究が必要な部分は、デモの主体が誰だったかという点だ。 朴正熙は釜山のデモは善良な市民というより 「食堂のボーイや下っ端」が多いのではないかと言いながら 「そいつらがどうして国会議員の辞表を選別受理したとか何とか分かるだろうか。 新民党で計画したことなのに」として、デモの背後は新民党であり、デモに出たのは 「食堂のボーイや下働きたち」と認識していた。 この‘下働きたち’が歴史を変えた。 釜山市警の<79釜馬事態の分析>という報告書を見れば 「20才前後の不良性向者による大学生仮装集団(アカすり、食堂従業員、工員、靴磨きなど)」を 「デモの特異様相」として指摘した。 特に「夜間になるにつれデモ隊は都市ルンペン、接客業所労働者、零細商人、半失業状態の自由労働者、無職者、靴磨き、食堂従業員、商店従業員、高校生など都市下層民が中心となってデモを主導」したとした。 光州抗争でも同じ様相が見られるが抗争の全体の流れを見る時、学生や自営業者、事務職など中産層の役割もまた軽視できない。

 中央情報部長キム・ジェギュは釜馬抗争が起きると急きょ釜山にくだり、現地を見て回り生々しい報告を受けた。 弁護人が作成した‘控訴理由書’によれば、キム・ジェギュは釜馬抗争の性格を「被告人が現場の釜山にまで行ってみた結果、160人余りを拘束したが学生はわずか16人しかおらず、残りは純粋な民間人であり、南民戦のような不純勢力の背後操縦はなく、むしろ民乱や民衆蜂起のようなもの」と見た。 彼は朴正熙に釜馬抗争は「維新体制に対する挑戦であり、物価高に対する反発と租税に対する抵抗に政府に対する不信までが重なった民衆蜂起です。 不純勢力は背後にいません。 上のような民乱は情報資料で判断すれば5大都市に広がります」と報告し、朴正熙の叱責を受けた。

 維新政権は1978年12月の総選挙で敗北した主要原因を経済問題の悪化に求めていた。 ところが1979年度の景気は 「1978年より顕著に下降曲線を描いていたし、物価は騰がっていた。」 釜馬抗争直後、釜山戒厳司令部合同捜査団が実施した世論調査によれば、釜馬抗争が勃発した最初の理由は「経済沈滞による庶民商人層の不満」と現れた。 釜山は朴正熙が5・16軍事反乱前に軍需基地司令官として勤めたところで格別の縁がある地だった。 朴正熙の代表的な業績として、人々は経済成長を挙げるが、当代の民衆、それも朴正熙が特別な縁故を持つ釜山市民たちは政治的抑圧のためだけでなく、経済の失敗のために朴正熙の写真を燃やしたし、維新体制を身をもって拒否した。 市民の抵抗が広がろうとするや朴正熙は発砲するという強力な意志を表明し、キム・ジェギュの銃に撃たれることになる。

ハン・ホング(韓洪九)はおもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

韓国語原文入力:2013/05/03 20:07
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/585853.html 訳J.S(6811字)

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