登録 : 2013.02.16 00:14 修正 : 2013.02.16 13:58

江南(カンナム)は朴正熙のおかげ
朴槿恵(パク・クネ)は江南のおかげ…

第3漢江(ハンガン)橋、南山(ナムサン)一号トンネル、第8学区…
朴正熙の江南(カンナム)集中投資は
金を持てる者を残らず引きつけた
政府には引き止める理由がなかった
地主から公共用地を受け取り
開発費用と政治資金を造成した

"その土地一坪も買わずに何をしていたのか"
子供たちは誠実に働いてばかりいた両親を恨み
父母たちは江南富者を羨んだ
投機共和国になった大韓民国は
今、槿恵(パク・クネ)政府のスタートを迎える

 大韓民国は江南(カンナム)共和国だ。 いつのまにかそうなってしまった。 夜も昼も大韓民国を支配する江南の歴史は維新と共に本格化した。 朴正熙が好き勝手に国会を解散し、憲法機能を停止させ維新という親衛クーデターを断行したまさにその頃でも、江南はのどかに静まりかえっている農村の村だった。 1970年代に人々はそこを江南と言うよりは‘永東(ヨンドン)’と多くの人が呼んだが、今は永東っ子という言葉は徐々に消えつつある。 永東は永登浦(ヨンドンポ)の東側ということから付けられた名前だが‘豊かさ’漂う江南の人々にしてみれば‘貧しさ’漂う永登浦から由来した名前を付けて暮らしたくはなかったわけだ。 昔から幾人かの王や実力者たちは王朝の中興のために首都を移す‘遷都’政治を試みた。 百済が熊津(ウンジン)へ、そしてサビ(訳注:現在の忠南扶余)へ遷都したことは必ずしも高句麗の南進のためだけではなかった。 高麗時代に妙淸(ミョチョン)が西経遷都を試みて挫折したのは首都開京(ケギョン・現在の開城)に基盤を置いた既得権層の反発のためだった。 李成桂(イ・ソンゲ)が新しい王朝をたて漢陽(ハンヤン)遷都を断行したのも高麗の權門勢族の影響から抜け出したいからであった。 以来600年、ソウルを中心にした既得権勢力の反発を軽く見て‘あえて’新行政首都建設を推進した盧武鉉は苛酷な代価を払わなければならなかった。 李成桂の漢陽遷都のような物理的措置があったわけではないが、朴正熙が江南開発を始めてわずか40年で江南は大韓民国の中心地になり、鴨と雁が戯れていた砂地に建てられた現代アパートは大韓民国身分上昇の終着駅になった。

今日の江南不敗神話は‘朴正熙 スタイル’

 新行政首都建設すら受け入れない既得権層を代弁して、憲法裁判所は慣習憲法という類まれなごり押し論理を掲げ、大韓民国の首都はソウルでなければならないという途方もない歴史的規範を作り出した。 しかし人々は知っている。 そこで言うソウルは江南のことだということを! うわべだけの誤魔化しはたくさんだ! 600年慣習憲法を振りかざしたが、ソウルのうわべは漢陽(ハンヤン)だ。 漢陽という言葉自体が漢江の北側を意味するものであるから、漢陽が江南を抱えることはできない。 朴正熙が選択した土地であり、維新と共に成長した江南は歴史の中に消えようとしていた維新を今日に蘇らせた。 朴正熙が行った‘恐怖政治’は歴史発展の中でやむを得ず力を失ったが、朴正熙が敷いておいた‘欲望政治’は独裁者の娘を大統領に引き上げた。

 1963年1月1日を期してソウルは近隣地域を吸収してその面積が2倍以上に増えた。 今日の江南地域はこの時にソウルに編入されたが、1963年末の常住人口調査で現在の江南区に該当する地域の人口数は1万4867人、今日の瑞草区(ソチョグ)に該当する地域の人口数は1万2069人に過ぎなかった。 ソウル市は1966年初め、第3漢江橋(現、漢南(ハンナム)大橋)建設計画を発表した。 江南地域の人口がいくらにもならないのに第3漢江橋の建設に着手したのは、都市開発や経済的理由より軍事的必要からであった。 韓国戦争の銃声が止み、まだ15年にもならない時期に、戦争勃発から3日で李承晩政府は漢江の橋を断ち切って逃亡し、ソウル市民を身動きできない状態出3ヶ月間にわたり人民軍統治下に残した記憶はあまりにも鮮明だった。 ソウルの人口は1950年に比べて2.5倍に増えたが漢江の橋と言えば漢江人道橋と広津橋(クァンジンギョ)の他に1965年に完工した第2漢江橋(現在の楊花(ヤンファ)大橋)一つが増えただけだった。 その上、第2漢江橋は戦争勃発時に軍の作戦用だけに使われることになっていたので、有事の際にソウル市民がどのようにして川を渡れば良いかという問題は政府当局の大きな心配事であった。

 今と較べれば何でもないことだが、朴正熙は当時大韓民国の主要機能がソウル(その時は当然に江北(カンブク)だった)に集中することを強く憂慮した。 軍人出身の朴正熙は江北に国家の主要機能が集中している状況で、もし戦争が勃発すれば戦争をきちんと遂行できないと判断した。 韓国軍のベトナム派兵以後、南北の緊張が急速に高まると1968年1月21日北側の特殊部隊による大統領府襲撃事件が起きたし、1月23日には米国の最新鋭情報艦プエブロ号が北側に連行されるという衝撃的な事件が起きた。 江南開発が始まったのは交通難、住宅難のような現実的な要因だけでなく、安保不安感も強く作用した。 特に1975年4月と5月ベトナム、カンボジア、ラオスなどインドシナ3国が順に共産化されたことは政府とソウル市民の安保不安を煽ったし、ソウル上流層の江南移住を促進した。 "まだ江北にお住まいですか" という挨拶の言葉も急速に広がっていった。

 韓国で不動産投機が本格化する直前である1966年、マルジュク通り、すなわち現在の良才洞(ヤンジェドン)では、かなり良い土地一坪の価格が300ウォンに過ぎなかった。 その時のジャージャー麺の価格は30ウォン。 今日までにジャージャー麵の価格がおよそ150倍程度上がる間に、マルジュク通りの地価は坪当たり3000万ウォン以上へ、10万倍以上も上がった。 寝て起きれば数十倍ずつ地価が騰がった時期、マルジュク通りに土地を買っておいた人々にとって韓国現代史はそれこそ‘マルジュク通り神話’であった。 しかしそこに僅かな土地も持てなかった多くの人々にとっては恐ろしく地価が急騰する韓国現代史は‘マルジュク通り残酷史’であった。 この呆れる事態はわずか一世代の間に広がった。 政府に不動産暴騰を阻めなかった責任を問うことは、もしかしたらあまりに純真なことかも分からない。 1970年代の中央政府やソウル市は、時には不動産投機の主役であったし、多くの場合には共犯と言われても返す言葉がない境遇だった。

]大統領府とソウル市の大統領競選資金準備作戦

 政府が京釜(キョンブ)高速道路の建設や江南開発のような大規模事業を特別な開発費用をかけずにやり遂げられたのは、いわゆる替費地商売ゆえだった。 例えば私が江南に土地が1000坪ある時、私の土地500坪を道路用地として提供すれば財産の50パーセントが減少したように見えるかもしれない。 しかし道路ができた後に地価が2倍に騰がれば地価を基準として見る時には半分を出しても私は損をしていない。 もし地価が10倍に上がったとすれば私は土地半分を出しても大きな利益を得ることになる。 政府や市が道路を作るのに、私が提供した土地500坪を全てを使わずに250坪だけ使ったとすれば、残りの250坪が替費地(訳注"日本では保留地減歩に相当)だが、開発事業の施行者はこの替費地を売って開発費用に充当する。 江南開発の別名である‘永東区画整理事業’は替費地売却代金を財源とする特別会計で推進された事業であった。 このような方式は政府にとって、公共投資をせずとも都市基盤施設を作れるようにするが、替費地が売れなければ事業自体が一歩も進めなくなる危険を持っている。 従って替費地を売って開発費用を用意しなければならなかった政府としては、地価上昇を望まざるを得なかったし、ソウル市の幹部の間では替費地をうまく売る人が有能な幹部として評価された。 ソウル市が土地商売に走り回る状況で不動産投機は規制対象ではなく事実上 助長対象であった。

 1970年代にソウル市都市計画局長、内務局長などの要職を務めたソン・ジョンモク教授は<ソウル都市計画の話>(第3巻)で1971年4月の大統領選挙に備えて大統領府警護室長パク・ジョンギュの指示でソウル市都市計画課長ユン・ジンウが1970年江南の土地を売買し数十億ウォンの政治資金を作って捧げた事実を非常に具体的に記録している。 ユン・ジンウはソウル市長キム・ヒョンオクと共に陸軍ヘリコプターで果川(クァチョン)から松坡(ソンパ)に至る江南一帯を見て回った後、パク・ジョンギュに呼ばれ 「最も将来性があって投資価値がある」場所の土地を買い集めろとの指示を受けたという。 彼は 「炭川(タンチョン)を境界にしてその西部地域一帯」すなわち今日の江南区になった地域の土地を大統領府が提供した資金で買い集め、地価がある程度上昇すればまた売って資金を作った。 ソン・ジョンモクが確実な資料に基づいて実名まで明らかにして記述した事例の他に、大統領府水準で介入したものがどれくらい更にあったのかは分からない。 しかし当時権力周辺で個別的な次元で江南一帯の土地を売買して大金を儲けたことは公然の秘密だった。

 政府は規模の大きい江南の替費地を処理するためにキャバレーなど大規模風俗店を江南に移住させることに努力した。 その結果、ソウルの歓楽街の中心が第3漢江橋を渡って新沙洞(シンサドン)一帯に移ることになった。 ソウル都心と江南を連結する南山1号トンネルは江南へ向かう有閑知識人と飲酒者に大きな便宜を提供した。 1970年代後半から江南は消費生活と大衆文化の新しい中心として登場した。 1979年に発表されたヘ・ウニの‘第3漢江橋’は「昨日初めて会って恋をして私たちは一つになりました。 夜が明ければ一番電車に乗って名前も知らない町に分かれるでしょう」と歌った。 すでに私たちの世相には‘ワンナイト スタンド’が広がり始めたわけだが、バカ正直な当局はどうして初めて会って一つになるのかと言いこの歌を禁止した。 ‘第3漢江橋’は「昨日‘再び’会って恋をして」と歌詞を変えた後に禁止曲から解除された。 大衆が好んで歌う歌の空間も‘帰る三角地(サムガクチ)’や‘霧立ち込めた獎忠洞(チャンチュンドン)公園’から、チュ・ヒョンミの‘雨降る永東橋(ヨンドンキョ)’や‘新沙洞(シンサドン)その人’、ユン・スイルの‘アパート’のように江南でなければ出てこれない所に変わっていった。 そして地下鉄2号線が本来の路線を変更して江南を通る環状線に設計変更されたのは荒野江南への人口流入を強く煽った。

 1970年代には通行禁止令があった。 賑やかだった江南も夜11時を過ぎれば人々が引き潮のように抜け出た。 江南が夕方の時間だけの瞬間的に華麗な空間で終わらないようにするには人々が来て暮らさなければならなかったし、人々を移住させるには何よりも江南に良い学校が無ければならなかった。 韓国最高の名門、京畿高等学校は江南の東側である三成洞(サムソンドン)に引越して来て、2番目に良いソウル高等学校は江南の西側の方背洞(パンベドン)に位置した。 これがすなわち名門8学区の始まりだ。 8学区がなぜ良いのか、金持ちがたくさん住んでいるからだ。 金持ちはなぜ8学区が好きなのか、学区が良いからだ。 再び、8学区はなぜ良いのか、金持ちがたくさん暮らしているからだ。 また再び尋ねよう。 金持ちはなぜ江南に行くのか、学区が良いからだ。 こんなことを30年を越えてやってきて不動産と私教育のはえ縄漁業で積み上げたが、その誰も崩すことのできない江南共和国の威厳だ。

名門8学区、そして高級現代アパート

 1978年現代アパートの建設と分譲は江南の歴史に一線を画する事件だった。 今でこそレミアンだ、プルジオだ、チャイだとひどく優雅なアパート名が多くなったが、1970年代には麻浦(マポ)アパート、漢江(ハンガン)マンションのようにアパートに町名を付けていた。 現代アパートは初めてブランド名を付けた最高級アパートであった。 現代ではアパートを作る時、半分は社員用にするとして許可を受け、これを権力のある地位にいる公務員や言論人に特典分譲した。 もちろん公務員や言論人は分譲価格を支払いアパートを譲り受けたが、当時現代アパートには坪数により4千万~5千万ウォンという莫大なプレミアムがついた。 当時も裁判所は持てる者の側なので、プレミアムはわいろではないという呆れた判決を下した。 裁判所がこのように特典分譲を受けた者の名誉を守ったために、国民の腸は煮えたぎっていった。 当時特典分譲を受けた人々の内、公職者は190人、言論人は37人であったが、13年が過ぎた金泳三政権時期によく水西(スソ)不正と呼ばれる水西地区特典分譲事件が起きて、現代アパート特典分譲事件が再照明された時<ハンギョレ新聞> 1991年3月2日付報道によれば建設部長官など現職長官だけで5人もが現代アパート特典分譲関連者だったという。 現代が有望な官僚を毛抜きで選ぶようにして特典分譲を与えたのだろうか、そうでなければ韓国社会のエリート層にこのような特典心理が蔓延しただろうか。

 江南が開発されてアパートが林立し、私たちの暮らしも大きく変わり始めた。 石油ボイラーは主婦を煉炭から解放し、洗濯機は洗濯から解放し、手軽な玄関開閉装置は余暇時間が増えた主婦たちを自由に外出できるようにしてくれた。 デパートには文化センターが乱立し、主婦たちは書道も学び運転も習い始めた。 アパートの構造も変化した。 1970年代になっても台所の脇には住み込み家政婦が寝る小さな部屋が別にあったが、今は農村から抜け出す人口がみな抜け出しているうえに住み込み家政婦の代わりに時間制家政婦を好むようになり韓国だけにあった家政婦部屋が消えることになった。

 しかしこのような変化は江南開発が持たらした深刻な影響に比較すれば極めて皮相的なことに過ぎない。 江南は韓国社会にとって貧富格差の震源地であった。 維新以前に広く歌われた健全歌謡に‘豊かに暮らしてみよう’がある。 "豊かに暮らしてみよう豊かに暮らしてみよう、私たちも一度豊かに暮らしてみよう" という歌を歌いながら、人々は熱心に仕事をしさえすれば豊かな暮らしができる道が開かれると信じた。 皆が熱心に仕事をしたが、違いは土地を買ったか、特に江南に土地を買ったか否かで分かれた。 皆は同じように豊かに暮らしてみようではなく、自分一人が豊かに暮らしてみように世の中は急激に変わっていった。 江南不敗神話、または、不動産投機は、去る数十年間にわたり私たちが成し遂げた経済成長の成果を特定地域に一定規模以上の土地を持った者がストローを挿しこみ吸い込んでしまったことを意味した。 そして彼らは大韓民国を支配する強力な守旧勢力を形成した。 さらに大きな問題は熱心に生きてきた私たちの兄弟が彼らをあまりに羨ましがったという点だ。 "アー、私たちの社会でうまく行った人々は、あのように生きて、あのように金を儲けたんだな" ということを悟って、私たちは正義もへちまもなく、とにかく金が重要だということを習った。 多くの若者たちは誠実に生きてきた両親たちをその時いったいなにをしていたんだと恨み始めた。 ただ判決でだけ語るという偉大な司法府は金こそがすなわち正義だと教えてくれた。 十余年前、MBCがまだまともな精神状態だった時期<今だから話せる>で‘投機の根元、江南共和国’篇を演出したユ・ヒョン ディレクターはあるインタービューでこのように話した。 「朴正熙、全斗煥政権の時、不法に人を捕らえて行き拷問して殴ったことは許せません。 ところがこの番組を作ってからは、それ以上に悪いのはすべての人々に投機を夢見させる社会構造、道徳や勤勉などは‘ちゃんちゃらおかしいこと’にしてしまい、不労所得、一攫千金を夢見させる社会構造、また、それらの人々がさらに高いアパートを作り、タワーパレスを作り、彼らだけの世界を作って贅沢三昧する社会構造を作ってしまったことこそ朴正熙、全斗煥に一層峻厳に問い質さなければならない罪悪ではないでしょうか?」 維新はこのようにして今日を支配している。

ハン・ホング(韓洪九)は おもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

韓国語原文入力:2013/02/15 16:27
http://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/574066.html 訳J.S(6964字)

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