韓国では毎年約80万人を超える人々が定年を迎え、約85万人が法律上の高齢者になる。今後5年の流れからすれば、400万人を超える人口が定年の橋を渡ることになるだろう。定年が過ぎた人たちはどのように暮らしているのだろうか。皆がそうではないが、多くの人が大変な日々を過ごしているように見える。回転ドアを通るように、定年後にも労働市場に復帰する人々が数え切れないほどいる。定年と引退をつなぐ橋は切れた。定年がすなわち引退の始まりの時代もあったが、今は違う。私たちの時代の定年は非自発的失業であり、経歴断絶に過ぎない。主な働き口から退職する年齢は40代後半であり、引退時期は70代初めだ。大韓民国に住む平均的な男性または女性は定年が過ぎた後もしばらく仕事から抜け出せない。
多くの人が人生の曲線は鐘の形の放物線だと考えている。ところが、この仮定は間違っている。人生の軌跡はそのような形をなしていない。その曲線に沿っていくと、あなたは前足は短くて後ろ足は長い獣のように「狼狽」する羽目になるかもしれない。前半に稼いだお金で後半を暮らしていける人は、運のいい少数者に過ぎない。期待寿命の延びたことで起きている現象だ。
この絵こそが平均寿命100歳時代の「本物の」人生曲線だ。山が一つではなく二つだ。ヒトコブラクダではなく、フタコブラクダに似ている。人生の中盤を基点に新しい上り坂が始まる。再び山に登れという意味なのかって。そうだ。中年は山の頂上に向かって走る時ではなく、2度目の人生に備えなければならない時期だ。年齢を眺める観点と解釈を変えなければならない。
最初の山の名前は「成功」だ。熾烈な競争を勝ち抜いて、何とかもっと高い所に向かって汗を流しながら登る時期だ。成功の姿はそれぞれ違うが、誰もが成功を追い求める。2つ目の山には特に決まった名前がない。それぞれが望む「名札」を付ければ良い。生涯をかけて叶えたい夢ともいえる。20代の10年間に流した汗で前半部の’20年を生き、50代の10年間に注いだエネルギーで後半部の20年を生きるのだ。この「10+20」の公式を2回繰り返すのが、私たちの時代に合う生涯周期(ライフサイクル)だ。この公式によると、後半部は前半部の付録ではない。むしろその反対に近い。前半部は後半部のための予行練習と見なすのが正しい捉え方だ。本当に望む夢と希望は後半部に実現する可能性が高いためだ。
中年期に入った人々の大多数が定年以後の人生を心配する。正確に言うと、人生の後半部をどのように生きていくかについて悩みが尽きない。30年を超える長い時間の川を無事に渡るためには、備えが必要だが、そうできていないと感じているからだ。老後の準備という言葉を聞くと、人々は条件反射のようにお金のことを先に思い浮かべる。それぞれの人生にそれぞれが責任を負い、生き残りを図っていかなければならないこの世の中を乗り切るためには、お金が必要だ。老年の貧困は災いである。ならば、お金さえ十分あれば、良い人生(good life)を過ごせるだろうか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。お金は必要条件に過ぎず、十分条件ではない。お金だけでは十分ではない。良い人生を送るためにはお金以外にも準備しなければならない要素がさらにある。良い人生とは何だろうか。 様々な定義と解釈が存在する。注目すべきなのは、良い人生そのものではなく、良い人生を送るための「条件」だ。
先輩たちの人生を教訓にするなら、良い人生を送るための条件は大きく分けて4つに絞られる。健康、お金、遊び(趣味)、関係だ。健康で、ある程度のお金を持っており、自分だけの趣味を持って、近い人々と良い人間関係を維持していかなければならない。生涯の後半を支える4つの柱だ。柱が建物の重さを支えるように、これらがあってこそ人生の重さに耐えることができる。年を取ると失うものもあるが、得るものもある。情熱と覇気は薄れていくが、経験と年輪には厚みが出る。目はかすんでも、世の中を見る視野は深まる。どこが森でどこが沼なのかを見分ける知恵が生まれ、時間の密度を高める方法を会得する。人生を長く生きた人だけが身につけられる特別な能力だ。この力が後半の人生の支えになってくれる。
秋は収穫の季節だが、同時に種まきの時期でもある。寒い冬を耐え、翌年の春に実を結ぶ植物の種は秋にまく。凍った地面で冬を生き抜いた野菜の方がはるかに甘くておいしいものだ。人生は一つではなく、二つの塊であること。この考えの違いが人生の航路を異なる方向へと導く。途中で道に迷っても、空に輝くあなたの「星」に沿って行けば、無事に目的地にたどり着けるだろう。