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李大統領「私には高校の同窓生ではなく、時計工場の同窓生らがいる」…46年来の友情

登録:2025-06-16 06:47 修正:2025-06-16 08:49
1979年、李在明大統領(左端)が時計を作るオリエント工場で働いていた頃、南怡島にピクニックに行き、車座になって歌う姿=共に民主党提供//ハンギョレ新聞社

 李在明(イ・ジェミョン)大統領が14日、非公開で行った長男ドンホさんの結婚式に「少年工」時代に一緒に働いていた「オリエント時計工場」の同僚たちを招待した事実が知られ、注目を集めている。

 この日、与党「共に民主党」のチョン・チョンネ議員はフェイスブックへの投稿で、彼らと一緒に撮った写真を載せ、「少年工の李在明が働いていたオリエント時計工場の友人たち。李在明大統領の息子の結婚式に招待されて来た方々に結婚式場の外で会った」と綴った。チョン議員は、李大統領の長年の同僚たちから「チョン・チョンネ議員、わが友である大統領をよろしく頼みます」と言われたと伝えた。

李在明大統領とかつてオリエント時計工場で一緒に働いた同僚たちが14日、李大統領の長男ドンホさんの結婚式に招待され、共に民主党のチョン・チョンネ議員と記念写真を撮っている=チョン・チョンネ議員のフェイスブックよりキャプチャー//ハンギョレ新聞社

 オリエント時計工場は夢を抱いていた少年工が最後に労働と学業を並行しておこなったところだ。12歳だった1976年から学校に行かず工場で働き始めた李大統領は、15歳だった1979年から2年間、そこで働いた。働く間、高卒認定試験に合格し(1980年4月)、その後、中央大学法学部に進学した。中卒認定試験には1978年8月に合格した状態だった。

■働きながら勉強したこの工場で、高卒認定試験に合格

 中学・高校に通っていない李大統領にとって、オリエント時計工場の同僚らは特別な存在だ。李大統領は2日、ユーチューブチャンネル「キム・オジュンの謙遜は難しい ニュース工場」に出演し、「(中学・高校の同窓生たちはいないが)その代わり、工場労働者の同窓生たちがいる」とし、「オリエント工場の同窓会がまだ続いている」と述べた。李大統領は「他の人たちにとっては、人生で最も重要な友人の役割を果たすのが高校の同級生なのではないか。私たちはちょうど高校の年齢の時の工場労働者たちの会を開いている」と語った。

李在明大統領が最初の大統領選挙に挑戦した2017年1月23日、過去「少年工」として働いていた京畿道城南市のオリエント時計工場の庭で、大統領選挙出馬宣言をした後、自身と共に時計工場で勤務した同僚たちを舞台の上に上げ、挨拶をしている=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 李大統領は2017年の初の大統領選出馬宣言も、京畿道城南市上大院洞(ソンナムシ・サンテウォンドン)のオリエント時計工場でおこなった。かつて共に働いていた同僚たちを舞台に引き上げ、挨拶を交わしたりもした。

 当時、李大統領は「初等学校(小学校)を卒業した1976年春からきれいな制服の代わりに油汚れがついた灰色の作業着を着て、母と手をつないで工場に向かった」とし、「その少年労働者が今日まさにその残酷な記憶の工場で、大韓民国最初の労働者出身大統領になろうとしている」と叫んだ。

李在明大統領が最初の大統領選挙に挑戦した2017年1月23日、過去「少年工」として働いていた京畿道城南市のオリエント時計工場の庭で、大統領選挙出馬宣言をした後、ハンカチで涙を拭っている=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 工場で働きながら勉強を続けることは決して容易ではなかった。李大統領の自叙伝などによると、李大統領はオリエント時計工場に入り、中卒認定試験の塾に一緒に通っていた友人のシム・ジョンウンさんに会って「言葉にできないほど嬉しかった」という。二人は高卒になっても工場の管理者にはなれないことに気づき、「一生懸命勉強して大学に行こう」と誓った。だが「勉強しようとする少年工たちに厳しいのはオリエントも同じ」だったとし、「しょっちゅうひどい目に遭わせようとする人たちを避けて」一人で作業するメッキ室に移り、自分の作業をできるだけ早く終わらせ、勉強する時間を作ったという。

■嗅覚の半分以上を失った場所

 オリエント時計工場は、李大統領が労働災害に遭ったところでもある。ここの前に李大統領は野球グローブを作る工場でプレス機に左腕と手首の関節が挟まれ、障害6級判定を受けたが、オリエント時計工場ではメッキ用化学物質が原因で嗅覚の半分以上を失った。

 嗅覚をほぼ失ったのも、勉強への情熱のためだった。李大統領は元々働いていたメッキ処理室からラッカー塗装室に移動したが、その理由は、二重に密閉された区域であるため、勉強の邪魔をされにくだろうと考えたからだという。 最大限のスピードで作業量を終え、残りの時間は勉強に費やした。 ところが、ラッカー室は毒性物質が排出されず、化学薬品の臭いが充満しており、結局嗅覚の半分以上を失うことになったのだ。李大統領は1981年7月になってようやくオリエント時計工場を完全に辞め、大学入試学力テスト(共通テスト)の準備に邁進し、1982年に中央大学法学部に入学することができた。

イ・ユジン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/1202835.html韓国語原文入力:2025-06-15 18:07
訳H.J

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