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「日本と中国を乗り越える」ため名付けられた忠武路と乙支路…ソウルの道路名の由来

登録:2023-12-15 06:40 修正:2023-12-15 09:34
日帝強占期に最も栄えた現在の忠武路は、日本人が最も活発に活動した場所であることから、日本の水軍を破った忠武公・李舜臣の雅号を取って忠武路と命名された。写真はかつて忠武路の入口だったソウル中央郵便局(左)から明洞聖堂方向の現在の姿//ハンギョレ新聞社

 どの国も自国の道路に名称を付けている。都市開発と共に人口が増えると、移動の利便性のため、数多くの道路が生まれる。これらの道路に名前を付けることで、混乱のない円滑な共同体社会が可能になる。

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道路に付いた名前、地形・特産物・伝説などから由来 
「統治体制の歴史的正統性」も認識させる 
島山大路、栗谷路、元暁路もあるが 
解放以降の人物などは珍しい…「白凡路」が唯一

 ここで道路名は、その地形や特産物、または長年語り継がれてきた伝説などに由来することもあるが、都市の主要道路については、統治体制の歴史的正統性を認識させるため、貨幣に描かれた人物と同様に、ほとんど近現代史の人物や事件などが名称として使われる。しかし、韓国社会は分断の中でその正統性に対する是非が明確に決まっていないため、主に植民地時代以前の朝鮮時代までの人物と事件に限定される。ソウルの道路名で、その唯一の例外は白凡路(ペクポムロ)だ。孝昌(ヒョチャン)公園に安置された白凡金九(キム・グ)を記念するための白凡路(新村~孝昌公園)も、1984年になってようやく制定された。

 このような理由から、ソウルの道路名の大半は朝鮮時代以前の古代史に因んだものだ。結局、道路名はその社会の人々が合意できる最小限の歴史的正統性でもあるのだ。ならば、現在の韓国社会で合意された歴史認識を、道路名を通じて見てみよう。

ソウルの道路名の中で唯一、現代史の人物として名付けられた白凡路(地下鉄2号線新村駅から地下鉄4、6号線三角地駅)。ヨンマル峠から孔徳洞ロータリーと新村方向に撮った写真//ハンギョレ新聞社

 解放(日本の植民地からの独立)翌年の1946年、韓国政府は街路名制定委員会を立ち上げ、まず日帝強占期(日本による植民地時代)の日本式道路名の「○○通」を「○○路」に全て変更したうえ、名前も変えて道路名に刻まれた日帝の残滓を消した。

 代表的な事例としては、まず、日帝強占期の京城(キョンソン)の最も中心部だった本町通を、日本水軍を破った李舜臣(イ・スンシン)将軍の雅号を取って忠武路(チュンムロ)に改めた。日本で本町とは、その「都市の中心となる場所」を意味し、通は「道」を意味する。したがって本町通は主要都市ごとにある地名で、例えば光州(クァンジュ)の本町通も壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の際、義兵長だった金徳齢(キム・ドクリョン)の雅号を取って忠壮路(チュンジャンロ)に変更された。

 日帝の名残を消した代表的なもう一つのところが忠正路(チュンジョンロ)だ。 この一帯は江華島条約(日朝修好条規)以降、日帝が初めての日本公使館を現在の地下鉄西大門(ソデムン)駅近くの東明女子中学校の場所に建て、日本の朝鮮進出の拠点を作ったところだ。日帝はこの一帯を日本公使竹添進一郎の名前を取って竹添町と名付けた。したがって、これも乙巳勒約(第二次日韓協約)に憤慨し、自決した 閔泳煥 (ミン・ヨンファン)の雅号を取って忠正路(チュンジョンロ)に改めたのだ。

米国大使館(左側の建物)から鄭道伝の自宅跡である旧鍾路区庁を通り、曹渓寺方向に朝鮮の開国功臣鄭道伝を称える意味で彼の号を取って命名された三峰路(光化門世宗大王銅像~曹渓寺前交差点)//ハンギョレ新聞社

 3つ目の事例は現在の小公路(ソゴンロ)だ。ここにある皇室迎賓館の大観亭に当時の日本軍司令官の長谷川好道が司令部を設置しただけでなく、この一帯の地名を自分の名前を取って長谷川町と命名したが、これを旧地名の小公洞(ソゴンドン)を通る道だとして、小公路に改名した。小公洞は朝鮮太宗の次女である慶貞公主がこの地域に嫁ぎ、小さな公主谷と呼ばれたことから名付けられたものだ。

 一方、中国と関連した道路名は乙支路(ウルチロ)だ。ここは本来、乙支路1街と2街の間に低い峠があり、遠いところからここを見ると、銅が太陽を浴びてきらめくようだとして「クリゲ(銅の峠)」と呼ばれたが、日帝強占期には漢字で「黄金町」に改められた。しかし、解放後、乙支路に変更された。なぜなら、乙支路3街の水標橋一帯が、華僑が朝鮮半島に進出して初めて華僑村を形成したところであるため、中国の隋の侵略を退けた薩水大戦の主人公、乙支文徳(ウルチムンドク)将軍の名前を取ったのだ。

地下鉄西大門駅一帯は、日本が朝鮮を侵略した時に初めて進出したところだ。これに対し、乙巳勒約で自決した閔泳煥を称える意味で、彼の雅号を取って忠正路と命名した//ハンギョレ新聞社

 このように外勢と関連した名称が生まれたのとは異なり、その一帯に住んでいた歴史的人物に因んで名付けられた代表的なところは、栗谷李珥(イ・イ)が仁寺洞(インサドン)に居住したころから命名された栗谷路(ユルゴクロ)だ。この他にも、三峰鄭道伝(チョン・ドジョン)が住んでいた場所だとして三峰路(サムボンロ:米国大使館~曹渓寺交差点)、百科事典『芝峰類説』の著者、李ス光(イ・スグァン)が住んでいた芝峰路(チボンロ:普門駅から東廟前駅)、島山安昌浩(アン・チャンホ)の墓があることから島山大路(トサンデロ:新沙駅~永東大橋南端)と呼ばれるようになった。

 また、その人物が実際に住んだことはないが、一帯の機関や学校などの象徴性によって命名されたものもある。例えば1970年南山(ナムサン)の麓に子ども会館が建設され、翌年子ども運動の創始者、小波方定煥(パン・ジョンファン)の銅像も建てられたことを受け、その前を通る道路も小波路(ソパロ)と名付けられた。また、瑞草区(ソチョグ)の小学校教師を養成するソウル教育大学前を通る道路は、李栗谷(李珥)を育てた母親の申師任堂(シンサイムダン)に因んで「師任堂路」となった。一方、南山の素月路(ソウォルロ)は道路名制定当時、その道路沿いに金素月(キム・ソウォル)の詩碑があったことから付けられた名前だ。

退渓李滉と地理的な縁はないが、栗谷李珥を称える栗谷路ができた状況で、朝鮮儒学の二大学者である退渓李滉を称える道路名もあるべきという意味でつくられた退渓路(ソウル駅~新堂駅)。写真は退渓路で最も賑やかな新世界百貨店(左側)一帯//ハンギョレ新聞社

 しかし、このような象徴的な建物や銅像さえなかったにもかかわらず、歴史的人物の名前が借用された道路名もある。ソウル都心を通る退渓路(トェゲロ)は退渓李滉(イ・ファン)の号を取ったが、この道路と李滉は何の縁もない。李滉の銅像も南山にある。にもかかわらず、この道路を退渓路と命名したのは、解放後、栗谷路を制定し、栗谷李珥とともに朝鮮儒学の二大学者である退渓李滉の名前を持つ道路名もあるべきという理由からだった。

 ところが、さらに荒唐無稽なのは元暁路(ウォンヒョロ)だ。誰もがこの名称を聞いた瞬間、元暁大師を思い浮かべるだろう。しかし、元暁路は元暁大師とは何の縁もない。これは1946年、街路名制定委員会が付けたものだが、忠武路、乙支路などと違っていかなる命名の根拠も示していない。あえてその根拠を想像してみると、日帝強占期、この一帯を元町としたが、ここで「元」の字と近隣の孝昌院の「孝(ヒョ)」を合わせたものとみられる。あるいは当時、街路名制定委員会チーム長だった初代ソウル市長のキム・ヒョンミンが敬虔な仏教信者だったことから、彼が仏教界の代表人物である元暁大師を称える意味でこのような便法を使った可能性もある。ソウル市は1969年、このような批判を意識してか、孝昌公園に元暁大師の銅像を建てた。

 ちなみに江南の代表的な道路であるテヘラン路は、1972年に宣靖陵(宣陵と靖陵)に墓が3つあるとして三陵路(サムヌンロ)と命名されたが、1977年にソウル市とイランの首都テヘラン市が姉妹都市になったことを機に、テヘランとソウルにそれぞれソウル路とテヘラン路を命名することにしてできた道路名だ。

文・写真 ユ・ヨンホ|『西村を歩く』『漢陽都城歩いて一周』の著者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1120415.html韓国語原文入力: 2023-12-14 16:36
訳H.J

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