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[山口二郎コラム]「日韓共同宣言」25周年、日韓関係をめぐる回顧と展望

登録:2023-10-16 07:03 修正:2023-10-16 07:23
尹錫悦大統領が先月10日(現地時間)、インド・ニューデリーのバーラト・マンダパム国際コンベンションセンターで開かれた韓日首脳会談で岸田文雄首相と握手している/聯合ニュース

 去る10月8日、小渕恵三首相と金大中大統領による「日韓共同宣言」が発表されて25周年を迎えた。この機会に、この画期的な共同宣言を実現した政治過程を振り返り、今後の日韓関係の発展にどのようにしてつないでいくか、考えてみたい。

 共同宣言当時の駐韓大使だった小倉和夫氏は、朝日新聞のインタビューに答えて、宣言に至る歴史について、次のように語っている(朝日新聞、10月9日)。朴正煕(パク・チョンヒ)時代の日韓関係には2つの側面があった。第一は、朴政権と日本の自民党政権のパイプであった。第二は、韓国の民主化を進める市民、学生とこれに連帯する日本の進歩派勢力のつながりであった。1980年代後半に韓国の民主化が進み、第一のパイプは清算された。それに並行して90年代前半には、日本では自民党政治の大規模な腐敗が露呈され、進歩派も参加する政権交代が起きた。こうした政治構造の変化が、日韓関係の刷新を可能にした。

 私がはじめてソウルを訪れたのは、1995年夏、当時の社会党の政治家が進めていた民主化勢力の交流事業に参加するためであった。日韓関係を東アジアにおける民主主義国同士の対等な関係にしたいという意欲が両国の政治家にあった。小渕氏は、伝統的な自民党の政治家だったが、対人地雷禁止条約の批准を進めるなど、平和外交には積極的であった。進歩派の金大中氏と協力し、未来志向を具体化する行動計画を策定したことは大きな功績であった。

 1990年代の前半から中頃にかけては、自民党が最もリベラルになった時期であった。1993年、宮沢喜一内閣のもとで、河野洋平官房長官が日本軍「慰安婦」に対する謝罪の意を示す談話を発表した。また、1995年の終戦の日(韓国の光復節)には、自民党も参加する連立政権の村山富市首相が、侵略と植民地支配に対する反省とお詫びを表明する戦後50年談話を発表した。また、元慰安婦に対する補償を行うために、政府も出資して、アジア女性基金が設立された。この時代の自民党の指導者の中には、戦争を経験した者もまだ多数存在した。彼らは、進歩派のように日本の侵略を断罪するという議論はしなかったが、日本が愚かな戦争を仕掛け、アジアの人々に大きな迷惑をかけたという事実は常識として共有されていた。アジア女性基金については、謝罪と救済の仕方が中途半端だという批判が日韓両国にあったが、戦後50年の前後には、自民党も含めて、何らかのお詫びが必要だという程度の合意は存在した。

 しかし、2000年代に入ると、日本の政治、社会の雰囲気は大きく変わり始めた。その変化をひとことで言えば、自己中心的なナショナリズムが広がっていったということになる。その理由としては、北朝鮮による核ミサイルの開発と拉致事件の露見、日本の経済的衰弱、ソーシャルメディアの普及と世論形成の変化があげられる。

 戦後日本は、国際社会においては戦争責任を背負って、低姿勢で振舞ってきた。しかし、拉致事件は日本を始めて被害者の側に置いた。他国の犯罪を糾弾し、遠慮なく自己主張できるという経験は、北朝鮮との関係だけでなく、他の国における「反日的」な動きに対しても反撃を加えるという一部の運動を加速した。

 1990年代以来、日本は長い経済的停滞の中にあり、経済大国の地位から滑り落ちた。実体的な経済力が衰弱しているからこそ、文化や伝統をもち出して、「日本スゴイ」という主観的な自己賛美の動きが広がった。

 インターネットの発達、特にソーシャルメディアの普及が排外的なナショナリズムの言説の場を提供するというのは、日本に限った話ではない。それにしても、歴史修正主義や外国人差別の言説が日常的風景になったことは、インターネットなしにはありえなかった。

 ここから、未来志向の日韓関係をどう取り戻すか。あまり悲観的になる必要はない。音楽、映画、ドラマなどの文化の相互浸透は、もはや不可逆である。若い世代を中心に、等身大の人間として互いを理解する素地はできている。人口減少、若者の生きづらさなど日韓が共有する難問について悩みを語り合うというのが、未来志向のパートナーシップなのだろう。

//ハンギョレ新聞社

山口二郎|法政大学法学科教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr)

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1112134.html韓国語記事入力:2023-10-16 02:37

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