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[インタビュー]韓国の画家・李仲燮と方子夫妻の愛を本にした毎日新聞記者

登録:2023-10-06 08:20 修正:2023-10-06 16:40
大貫智子さんがインタビュー後に写真を撮っている=カン・ソンマン先任記者//ハンギョレ新聞社

 「李仲燮(イ・ジュンソプ、1916~56)がいかに韓国の人たちに愛されているのか、最近実感しています。8月に韓国語版の本が出ましたが、わずか2週間で2刷になりました。2年前に日本語で出した本は初版が6000部でしたが、まだ2刷は出せていません」

 8月に韓国語で出版された『李仲燮、その人―思慕を越えて歴史になった名前』(チェ・ジェヒョク訳、ヘファ1117刊)の著者である大貫智子さんは、日本の日刊紙「毎日新聞」の入社24年目の記者だ。野球専門記者を夢見て新聞社に入社後、1年目に記者として野球場をまわる夢をかなえ、その後は主に政治部で外交関連の記事を書いている。2013年から5年間ソウル特派員を経験し、論説委員を経て、現在は政治部でコラムやインタビュー記事を書いている。

 大貫さんはソウル特派員期間の2016年、「韓国人が愛する画家」である李仲燮の名前を初めて聞いた。その年の「李仲燮、百年の神話」展で、李仲燮が日本にいる妻の山本方子(まさこ)さん(韓国名:李南徳(イ・ナムドク)、1921~2022)に「私は君が見たいです」と書いた日本語の手紙を読み、この夫婦の愛に強い好奇心を抱いたという。そして5年の時間をかけて、日本語の原著『愛を描いたひと―イ・ジュンソプと山本方子の百年』を出版した。

 9月8日、ソウルの金浦空港駅の近くにあるカフェでトークイベントのために訪韓した著者に会った。

李仲燮と夫人の山本方子さん=ヘファ1117提供//ハンギョレ新聞社

『李仲燮、その人―思慕を越えて歴史になった名前』の表紙=ヘファ1117提供//ハンギョレ新聞社
 大貫さんは今回の著書のため、90歳を超えた山本方子さんに、日本の自宅で2016年と2017年、2019年の3回インタビューを行い、画家の次男の泰成さんと孫娘の山本亜矢子さん(長男の故・泰賢さんの娘)にも会い、「李仲燮と山本方子の愛」を深掘りした。2018年と2020年には泰成さんから、李仲燮が妻に送った手紙や、韓国に住んでいた方子さんが実家に送った手紙など、これまで公開されていなかった手紙数十通を受けとり、執筆に活用したりもした。そのなかには、画家のキム・ファンギの夫人で画家・美術評論家のキム・ヒャンアンなどの李仲燮の知人たちが、家族と離れ一人になっている李仲燮を心配して日本の夫人に送った手紙もいくつかある。

 1939年に東京で出会った李仲燮と方子さんは、6年の恋愛の後、1945年に元山(ウォンサン)で結婚した。方子さんが著者とのインタビューで「あの時は本当に幸せそのものでした」と語ったほど、元山時代は李仲燮夫妻にとって一番幸せな時期だった。だが、その期間は短かった。5年後に勃発した朝鮮戦争によって、避難先の釜山(プサン)と済州(チェジュ)で深刻な生活苦で困難に直面した方子さんは、幼い2人の息子を連れ1952年に日本に向かった。当時、国交を結んでいなかった日本へのビザを取得することが困難だった李仲燮は、1953年に1度日本を訪れただけで、1956年にソウルの病院で無縁故者として死亡するまで、妻と2人の息子に会うことはできなかった。

 35歳で夫と死別した方子さんは、再婚せず李仲燮を生涯胸の内に抱いて生きた。普段は美術には関心がなく、小学校の時はあまりにも下手だったため美術が苦痛な科目だったという記者の大貫さんが、今回の著書を書くうえで一番答えを見つけたかった質問があった。「夫との死別後、40代、50代を経て子どもを育て、様々な葛藤や悩みがあったでしょう。孤独で誰かに頼りたい気持ちもあったと思います。(方子さんが)どのようにして耐えたのか知りたかったのです」

ソウル特派員のとき、李仲燮の展覧会を見て
日本で「夫婦の愛」について書こうと決心
夫人の山本方子さんに3回のインタビュー

李仲燮と知人の未公開の手紙も入手
「死別後、どのように耐えたのか、その答えは見つけられず
もっと早くにインタビューできなかったことが非常に残念」

野球専門記者を夢見た入社24年目の記者

 答えは見つかったのだろうか。大貫さんは首を横に振った。「40代と50代にあの方(方子さん)が持っていた感情の事実関係を、正確に聞くことはできませんでした。時には、過去の記憶が時間の経過とともに良い思い出になったりすることもあるでしょう。あの方がもう少し若かった時にインタビューできなかったことが非常に残念です。それができていれば、人間・山本方子の真の顔を見ることができたと思います」。続けてこんな話を語った。「私の本の女性読者の多くが、(方子さんは)若い頃の李仲燮との良い思い出だけが残っていたからだろうと言っていました。夫婦として一緒に過ごした期間が短かったから。画家の妻として生きるのはとても大変だということです。特に韓国の方がよく言っていたのですが、(李仲燮は)経済的には無能でカッとなりやすいタイプだから良い夫ではなかっただろう、と」

 しかし、生前の方子さんが李仲燮との思い出で幸せだったということは明らかだ。「あの方(方子さん)は、95歳になっても李仲燮の話をすると表情がやわらかくなり、幸せそうでした。(日本と韓国の)歴史や難しい質問をすると、慎重になり話をしなくなりましたが、李仲燮との初めての出会いや新婚生活は詳しく語ってくれました。その年齢になっても変わることなく、胸の内に李仲燮がいました。あの方にとって男性は李仲燮一人だったことは明らかです」

大貫さんが一番好きな李仲燮の絵として選んだ「玄海灘1」=ヘファ111提供//ハンギョレ新聞社

大貫さんのインタビューを受けたときの山本方子さんの様子=ヘファ1117提供//ハンギョレ新聞社
 大貫さんの本は、李仲燮の生涯と芸術を日本に本格的に伝えた初めての著書だ。本の出版後、「李仲燮の展覧会を開いてほしい」などの日本の読者の反応が結構あったと、大貫さんは述べた。「面識もない方が私に手紙を送ってきて、自身のご両親も(李仲燮夫妻と)同じような時期に韓国人夫と日本人妻として出会い、韓国で新婚生活を送ったと伝えてくれました。戦争の時に生活苦で夫人が子どもを連れて日本に来たのも同じだそうです」

 大貫さんは、韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権期に日本の外務省を出入りして、韓日関係を深く取材したことをきっかけに、新聞社からソウル特派員の勧誘を受け、韓国語の勉強を始めた。特派員として赴任した際には4歳の息子がいて、ソウルで幼稚園と小学校に通わせた。「日本の新聞社の女性特派員のなかで、夫は日本に留まり、小さな子どもだけを連れて育てたのは、私が初めてだと思います。こうしたワーキングママの経験も、私が方子さんに関心を寄せたことに影響があったのでしょう」

 インタビューを終え、李仲燮の芸術の本質は何だと思うかを尋ねた。「あの方(李仲燮)の人生を作品から丸ごと感じられることが、もしかしたら最大の魅力ではないでしょうか。絵葉書には方子さんとの恋愛が真っ最中だった20代の姿が、銀紙に描いた絵には性的な表現もあり、夫婦の愛が深まる様子がみられます。個展を控えて情熱的に作品を計画するときには、牡牛の絵が出てきます。また、気力がないときは、絵に血が描かれたり白い色彩が目立つようになります」

 一番好きな李仲燮の作品を聞くと、大貫さんは李仲燮が1954年に日本にいる夫人に送った手紙と「玄海灘1」を挙げた。「悲しいですが、私の心に最も響いた作品です。李仲燮が微笑を浮かべる妻と2人の息子に『必ず東京に行くから待っていてほしい』で叫んでいるかのようです。まだ希望を失っていなかった姿です」

カン・ソンマン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/1108624.html韓国語原文入力:2023-09-15 02:34
訳M.S

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