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[寄稿]尹大統領の「王」のごとき振舞い、そのカーテンの背後を見よ=韓国

登録:2023-07-24 09:02 修正:2023-07-27 10:09
尹錫悦大統領が4日、青瓦台迎賓館で行われた2023年下半期経済政策の方向性に関する第18回非常経済民生会議に、チュ・ギョンホ副首相兼企画財政部長官と共に入場している=大統領室写真記者団//ハンギョレ新聞社

 最近韓国で、大統領の一言で国の重要な決定が下され、政府与党とメディアが「御命」をあがめる様子を見ていると、大韓民国は大韓帝国に戻ってしまったのかという気がする。そのような現実を反映するかのように、人々の関心と批判的言説も尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領とキム・ゴンヒ女史、大統領側近たちに集中しているように思える。しかしその中で、私たちは重要なことを見過ごしている可能性がある。

 大統領制の弊害、特に尹大統領の一方的なコミュニケーション不在政治の問題点は、いくら強調してもしすぎることはないほど深刻だ。だが彼は本当に全能の王なのか? それとも支配階級の巨大なカルテルが韓国社会をさらに深く掌握する反動の歴史において、王の役を与えられた操り人形なのか? 私たちは尹錫悦時代に政治の舞台裏でどのような構造的変化が起きているのかに、より多くの関心を向けるべきだ。

 尹大統領は民主化以降のどの大統領よりも独占的な権力を行使している。政府の政策が大統領の意向に左右される恣意的支配がまん延している。ところが留意すべき点は、そのように巨大な力を振るう大統領が、一貫した哲学と時代診断、国家ビジョンを欠いた人物であるということだ。彼は保守主義者でも自由主義者でも新自由主義者でもない。彼に「主義者」と呼べるほどの精神的深さはない。

 大統領の考え方は、韓国社会の特権層の優越意識、極右の世界観、検事としてのアイデンティティー、市場万能主義の語彙が無秩序に入り混じっているものだ。大統領がそれを即興的に吐き出せば、与党、大統領室、政府省庁、検察・監査院など権力の手段となった国家機関が執行する。このようなやり方だから、大統領の力は社会を体系的に変えるというより、酔っ払ったようによろめかせている。無能な王の暴政のようなものだ。

 そのため、尹政権から何がしかの一貫した路線を見出すのは難しい。福祉サービスの市場化や失業給与縮小といった主張などの「新自由主義的」側面は存在するし、そのように規定することに反対するつもりはない。しかし、労組に対する強制捜索で賃金格差を解消したり、講師に対する税務調査で私教育(塾や習い事。公教育の対立概念)をなくしたり、市民団体に対する補助金を打ち切って気候災害を解決すると言ったり、反国家勢力を撲滅して安保を守ったりといった政治形態は、伝統的な保守政治とは性格が異なる。

 このように理念も政策もなく、権力のためだけに大衆の不安と憎悪を料理する技術が発達するのは、いまの右翼ポピュリズムの典型だ。重要なのは、このような状況が長引けば、結局は権威主義体制へと向かうということだ。すでに公論の場での論争、当事者の参加、交渉と妥協という政治過程は消え去っており、空いたその場には国が一方的に国民の暮らしを決める構造ができあがっている。そのような中、私たちは民主主義とは何なのかについての記憶と感覚を失いつつある。それこそ真に恐るべきことだ。

 さらに権威主義政治は、略奪的資本主義を強化する環境となる。韓国社会の特権集団は無能な大統領の過度な力を懸念しつつも、自分たちの階級の利益のために利用する。労働者と市民の基本権と主体性をここまで徹底的に抑圧してくれる政権を拒むわけがない。権力と特権のこのような共生によって、韓国資本主義は高度化するのではなく野蛮化する。力のない国民に対する隠すことのない軽蔑の上に、彼らの宮殿が建てられる。韓国の階級支配がこれほど赤裸々で破廉恥だったことがあっただろうか。

 韓国社会の野蛮化はそれにとどまらない。極右の主流化、主流の極右化という両面的な過程が続けば、韓国社会の支配様式はさらに暴力的になるかもしれない。極右の人物らが公共機関の長に多数任命され、国家組織の中心を占めているが、この過程がいかなる結果をもたらすのかが本当に心配だ。今後、既存の秩序に対する挑戦が少しでも強まれば、社会の至る場所に毛細血管のように広がっている極右の塹壕(ざんごう)から、改革勢力を打倒しようとする強い力が姿を現すだろう。

 このように、大統領の王のような振舞いが許された舞台のカーテンの背後では、国家、資本主義、市民社会の巨大な構造的変化が進行している。これを防ぐことはできるのか。冷静に現実を診断するなら、今は野党にも、市民社会にも、社会のどこにも、この激しい退行の流れに逆らって歴史を前へと推し進める主体と力量が見出せない。希望の後に経験した挫折と裏切りが厚く積もり過ぎたからだろうか。

 ただ一つ確かなのは、かつてテオドール・アドルノとエーリヒ・フロムが洞察したように、社会の無気力と順応主義は権威主義支配を強固にするとともに、それを永続させる社会的土壌であるということだ。そのような世の中が来ないようにするために、私たちは目を開いていなければならない。社会の生気がよみがえる場所は遠くにあるのではない。私たちの共同体と連帯の拠り所を守るあらゆる場所が、もう一つの未来の始まりだ。

//ハンギョレ新聞社

シン・ジヌク|中央大学社会学科教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1101356.html韓国語原文入力:2023-07-23 18:06
訳D.K

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