国家報勲処は毎月、独立運動家を選定してその精神をたたえているが、5月の主人公は「日本人」だ。いずれも日本による強制占領期の植民地朝鮮の側に立ち、日本に立ち向かってきた人たちだ。
朝鮮を愛した日本国籍のアナーキスト、昭和天皇暗殺を謀議し逮捕された死刑囚の金子文子氏が「5月の独立運動家」に選ばれたと、国家報勲処が30日明らかにした。「日本のシンドラー」と呼ばれた人権弁護士の布施辰治氏も同じく名を連ねた。
1903年、横浜で生まれた金子は、数奇な家族史によって朝鮮に住んでいた叔父の養女として育った。1919年、朝鮮で3・1運動の熱気を身をもって体験した金子は、日本の実家に戻り、1922年、在日朝鮮独立運動家の朴烈(パク・ヨル)と同志かつ恋人として関係を持った。金子はアナーキストと共産主義者で構成された在日朝鮮人団体「黒濤会」に所属し、労働者の後援と親日派への報復活動、無政府主義運動を展開した。
金子は1923年、朴烈ともに大正天皇と皇太子(昭和天皇)の暗殺を謀議した容疑で逮捕され、苦難に直面した。金子は当時、法廷尋問で「私は、天皇が私たちと少しも違うところのない同じ人間であり、決して神ではないということを立証するため、爆弾を投げ、天皇も私たちと同じように死ぬということを示そうとしたのだ」と述べた。獄中で朴烈と婚約した金子は、1926年2月に東京で開かれた初公判で白い韓服のチョゴリと黒いチマ(スカート)を着て出廷し、自身の名前を「朴文子(パク・ムンジャ)」だと明らかにした。同年3月26日の最終公判で死刑を言い渡されると、「マンセー(万歳)」と叫んだ。
獄につながれ調査を受けていた頃、二人が仲良く抱き合っている正体不明の写真が流布したエピソードが有名だ。当時、裁判所が証拠確保を目的に二人の歓心を買うため写真を撮った事実が明らかになり、日本の政界では司法権の紊乱として内閣総辞職を要求するなど、後に騒動を引き起こした。これをめぐる話が、2016年の韓国映画『金子文子と朴烈』で扱われ話題にもなった。
金子はその後、無期懲役に減刑されたが、獄中生活中の1926年7月、23才の年齢で死亡した。当時、日帝は金子の死を自殺と発表したが、今なお疑惑として残っている。金子の遺骨は朴烈の故郷である慶尚北道聞慶(ムンギョン)に埋葬され、獄死してから92年後の2018年、独立有功者に認定され、建国勲章愛国章を叙勲された。
独立運動家を弁護する過程で、布施は1932年に法廷冒とくで弁護士資格を剥奪され、1933年には新聞紙法と郵便法違反で禁固3カ月の実刑を宣告された。日帝崩壊後にふたたび弁護士として活動した彼は、新しい平和憲法の普及と在日朝鮮人の権利を保護する闘争にまい進し、1953年に死去した。韓国政府は2004年、布施に建国勲章愛族章を追叙した。