本文に移動

「政治争点化するな」という梨泰院惨事の責任者たちの詭弁

登録:2022-12-03 04:20 修正:2022-12-03 09:27
梨泰院惨事の犠牲者の遺族たちが1日、ソウル麻浦区のソウル警察庁梨泰院惨事特別捜査本部前で記者会見を行い「本当の責任者に対する捜査」を求めている=シン・ソヨン記者//ハンギョレ新聞社

 休暇シーズンによく遊びに行く渓谷や海水浴場のような場所を想像してみよう。毎年夏になると、水遊びをする場所では水難事故が数千件、死亡事故が十数件は発生する。この数多くの不運な事故がいちいち政治争点化されないのは、文字通り不運な事故であるからでもあるし、未熟な水泳技術、不注意、飲酒して泳いでいたなど、原因の所在が比較的明確であるからだろう。

 だが、もし同じリゾートで10人以上が一度に深刻な負傷を負ったり死亡したりする事故が起きれば、あるいは同じ場所で毎年似たような事故が発生していれば、話は違ってくる。救命胴衣あるいは浮き輪の管理が不十分だったり、流れが速くて水深が急に深くなる場所に対する管理監督が不十分だったりしたとすれば、安全に関する規制や制度が不十分ではなかったか、そうだったとすればいつ誰によって規制が緩和されたのかについて、あるいは制度は完備されていたものの業者がそれをまったく順守していなかったとすれば、誰がどのような理由でそれを黙認したのかについて、徹底した調査が行われなければならない。

「惨事を政争化するな」という政治家

 このような調査や究明、それ以前に問題提起、是非の判断などは、一般市民には非常に難しい。被害者、犠牲者の遺族としては余裕がないため、そのような問題意識を持つことさえ難しいことでありうるし、誰に向かって何についての口惜しさを訴えるべきかを知ることも難しい。この時に立ち上がる集団こそ市民団体、活動家、政党だ。被害者や犠牲者の遺族に代わって争点を提示し、問題を提起し、当局に要求を突き付けることこそまさに「政治争点化」だ。政治争点化はまさに、政治家に当然求められる最も重要な責務の一つだ。

 しかしこのような政治争点化の大切な価値は今、「政争化」という言葉で矮小化され、否定されつつある。政争化とは、ほかならぬ政治争点化の略語として理解されなければならない。政争化はしないでおこうというのは、政治はしないでおこうというのと変わりない。だが、現在韓国で語られている政争化という言葉は単なる「政治戦争」あるいは「政党戦争」と理解されており、あらゆる争点化の試みを無力化する、問おうものなら何か純粋さに欠ける汚染物質のようなものとして用いられている。政権を握る保守勢力が政治憎悪を助長するために「政治」という言葉を否定的に使うのは、今にはじまったことではない。かつて李明博(イ・ミョンバク)が口癖のように言っていたのが「政治的論理でアプローチするな」だったことを想起すれば、なおさらだ。

 政争化するなという言葉を他でもない政治家たちが使うのもあきれるが、この言葉が進歩陣営の一部から出るのは非常に残念だ。10・29梨泰院(イテウォン)惨事の場合、犠牲者名簿を遺族の事前同意なしに公開したことに意見の相違が伴うのは当然だが、問題の行動を政争化フレームに閉じ込めて非難するのは適切ではない。名簿公開と政争化は別の問題だ。名簿公開に対してどのような見解を持つかとは関係なしに、名簿公開を「政争化」だと非難することは、一切の政治的争点化の試みを、単に犠牲者と遺族を党派的に「利用」するものへと矮小化してしまうフレームを強化する危険性が高い。

 名簿公開問題はさておき、一部の進歩系論者たちは梨泰院惨事がシステムおよび制度の不在、すなわち社会的問題であることを指摘しつつ、惨事の責任を政権与党勢力に問おうとする野党陣営の攻勢に疑問を投げかけ、これをいわゆる「政争化」だとして矮小化している。「社会的問題」はどの勢力が政権を担当するかの問題ではなく、制度的・社会的にアプローチすべきであって、政争としてアプローチしてはならないという論理だ。ある人などは、今の与党ではなく野党が政権を握っていたとしても、似たような惨事を免れることはできなかっただろうとまで述べている。

 このようにすべてを制度やシステムの欠陥のせいにし、最終的に社会・構造の問題へと還元する「社会主義」は、一切の政治的行為を無意味なものにする危険性がある。もちろん、このように言う人々が惨事に対するすべての政治的アプローチを無価値なものとして否定するわけではない。彼らは正しい政治的アプローチと「政争化」を区別しようとするが、両者を明確に区別する方法はない。完璧に区別するためには制度圏の議会政治、代議制政治を超えた全く新しい意味を持つ政治を想像しなければならない。でありながら、結局は議論が二大政党制批判、そして多党制の確立を主張することに帰結するのは理解しがたい。いずれにせよ、このような高難度の作業は当然にも価値があろうが、早急にまず惨事の責任の所在を判断することが重要な時に聞かされるこのような話が、空虚な理想論に聞こえるのは事実だ。責任の所在の判断の邪魔にならなければ幸いだ。

社会構造のせいではない

 セウォル号惨事を考えてみよう。はっきり言えることは多くはないが、セウォル号の沈没原因として多くの人は無理な増設や改造、過積載やスピード違反航行などをあげている。また、2008年に行われた規制緩和によって旅客船の船齢制限が20年から30年へと延長され、老朽化した船舶設備および救命設備の管理がきちんと行われていなかったことも指摘された。このような点で、セウォル号沈没の原因は社会的な問題といえる。しかし小説家のパク・ミンギュが言ったように、惨事の本質は船舶が沈没したという「事故」だったことではなく、国が国民を救助しなかったという「事件」だったということだ。船舶がゆっくり沈没していく間に当局がぼんやりしていたことすらも社会構造のせいにするのは、非常に不当だ。結局のところ制度やシステムを運用したり当局を動かしたりするのは人であり、人々を代表する政治家たちだ。

 2020年、韓国社会がコロナウイルスを効果的に抑え込んだことで、しばらく失われていた公共性概念が少しではあるが回復するように見えた。災害状況における公共性とは、簡単に言えば「他人を保護することがすなわち自分を保護すること」だという約束だと言える。この約束を市民から引き出すのは、国を運営する指導者たちの役目だ。10月29日にそれは再び消えた。そして、その責任の所在は非常に明確だ。これを政争化しなければならない。

キム・ネフン|著書に『プロボカター』、『急進の20代』、訳書に『リア充を殺せ』がある。韓国の20代の現象と左派ポピュリズム、ミームとインターネット・コミュニケーションのようなデジタル現象に関心が高い。 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1070008.html韓国語原文入力:2022-12-02 20:00
訳D.K

関連記事