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セウォル号「忘れないという約束」…月日とともに忘れられるのではないか

登録:2022-04-16 19:57 修正:2022-04-16 22:57
今月10日、セウォル号惨事から8年目を控え追悼客の訪問が絶えない珍島の彭木港=イ・ジョンヨン先任記者//ハンギョレ新聞社

 今月10日に訪れた全羅南道珍島(チンド)の彭木(ペンモク)港。防波堤に沿って長く並んだ風にはためく黄色い旗は、端がすり切れていた。「記憶、約束、責任」という文字の書かれた旗の端がすり切れるくらいの時間がたった。セウォル号を記憶するための空間の一部も、少しずつ痕跡が消え、また、葛藤を抱えている。セウォル号惨事から8年、決して忘れられてはならない記憶の空間を訪ねた。

 彭木港(現在の珍島港)から始まり、セウォル号の据え置かれている木浦(モッポ)新港、セウォル号惨事追悼施設の建設が進められている安山(アンサン)の花郎遊園地、ソウル市議会前に規模が縮小されて移転した光化門(クァンファムン)記憶空間まで。私たちは、セウォル号の痛みの刻まれた時間をしっかりと覚えているだろうか。セウォル号を記憶する空間を訪ね、ダークツアー(悲劇的な歴史の現場や災害現場を巡って歴史的教訓を得る旅)に出た。

今月10日、全羅南道の木浦新港にあるセウォル号を見回る遺族と追悼客=イ・ジョンヨン先任記者//ハンギョレ新聞社

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遺族-珍島郡民、張りつめた彭木港

 彭木港で出会ったチェ・ウォンジュンさん(35)の家族にとって、4月は生と死が交差する季節だ。忠清南道公州(コンジュ)に住むウォンジュンさん夫婦は、セウォル号惨事の3日前の2014年4月13日、第1子をもうけた。その後、ウォンジュンさん家族は子どもが3歳の誕生日を迎えた2017年から毎年4月第2週の週末、珍島を訪れている。「あの時、私たちは子どもが生まれて産婦人科にいたのですが、『セウォル号全員救助』というメディアの報道を見て本当によかったと思いました。でも、すぐにそれが誤報だったと知って胸が痛みました。8歳と6歳の子どもたちとここを訪れるのは、二度とこのようなことが起きてはならないということを子どもたちに教えるためです」

 彭木港は惨事当時、被害者たちが陸に初めて上がった場所だ。焼香所、講堂、食堂などとして使われた仮設の建物が残っている。このうち焼香所として使われていた現在の彭木記憶館をめぐり、セウォル号惨事の遺族と珍島郡が対峙している。現在、ここは珍島国際港の開発工事作業が進められている。珍島郡は済州~珍島を1時間30分で走破する快速船の就航を今年5月に控え、昨年4、5月と今年1月に原状復旧を要求する是正命令公文を遺族側に送った。

 セウォル号遺族は「子どもたちを悼み、追悼客に説明するための小さな空間が必要だ」と訴えている。珍島郡庁は、彭木記憶館を撤去する代わりに、同じ場所に犠牲者の祈念碑を設置するなどの案を提示した。しかし、対立している双方の立場は合意点を見出せずにいる。珍島郡の関係者は「珍島郡民はセウォル号惨事当時、『喪に服しているのに住民たちが笑って遊んでいるわけにはいかない』と言って、カラオケなどを自主的に休業して駆けつけ、救助活動を助けた人たちだ。いまは郡民の事情も理解してほしい」と述べた。

 彭木港一帯はもともと漁業者が主に利用していた小さな港町だった。しかしセウォル号惨事以降、記憶を死守しようとする犠牲者家族の闘争と、住民たちの生存闘争が激しく対立する空間となった。憤然とした対立は彭木港周辺にしばし残し、追悼の気持ちを刻みながら歩くのに適した道がある。彭木港~彭木村~葦野原の道を通り、再び彭木港に戻る計12キロの「彭木 風の道」は、子ども青少年本作家連帯が開発した3時間30分の巡礼コースだ。ポータルサイトで「彭木 風の道」を検索すればマップを見ることができる。毎月第1土曜日は、午後1時ごろに彭木港の防波堤「記憶の壁」の前から出発するので、他の人たちと連帯して歩くことができる。

 彭木港を後にして訪れた木浦市の木浦新港には、真っ赤にさびついたセウォル号が眠りについていた。10日午後、遺族と4・16財団の関係者らがセウォル号前に白い菊を置き、追悼式を行った。セウォル号は新港から直線距離で1.3キロ離れた高下島(コハド)に永久保存される予定だ。海洋水産部は惨事から10年目の2024年に船体の移転を開始し、2028年までに据え置きを完了するというスケジュールだ。高下島に船体を移転するまで、セウォル号見学と追悼を希望する市民は、誰でもここを訪れることができる。ただし、木浦駅~木浦新港を行き来していたシャトルバスは、利用客が減ったとの理由で2018年8月以降は運航を中止している。追悼客たちにセウォル号惨事の概要と参観関連の連絡網などを案内していたホームページ(sewolinfo.mokpo.go.kr)も、現在は運営が中断されている。

 時間が経った分、セウォル号を記憶できる空間がばらばらになり、記憶も薄れていくのではないだろうか。ソウル光化門広場の再構造化工事でソウル市議会前に移転した記憶空間は、もとの大きさの3分の1の15.67平方メートルに規模が縮小した。犠牲者の写真とセウォル号の船体模型だけで空間はいっぱいだ。セウォル号惨事を記録した映像視聴機器と追悼文を残すキオスクは、スペース不足で撤去された。4・16財団の活動家のイ・ギョンヒさんは「記憶空間がソウル市議会前に移り、会社員たちが主に退勤時間帯に多く訪れているが、この空間は永久なものではないので元の位置に戻すべきだ」と話した。

 しかし、ソウル市からは特に返事がない。ソウル市議会の関係者は、「建物財産使用許可条件によって、主な出入口を遮るとか市民の便宜を損なうといった要件に引っかかり、記憶空間の規模を縮小せざるを得なかった」と説明する。現在のソウル市議会前のセウォル号記憶空間の使用許可は5月31日まで。その後も最大で5年の延長が可能だ。

珍島の彭木港の防波堤に設置された公共美術品「セウォル号記憶の壁」=イ・ジョンヨン先任記者//ハンギョレ新聞社

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人の暮らす場所に追悼の場を設ける理由

 12日、最後に安山市檀園区草芝洞(ダンウォング・チョジドン)の花郎遊園地を訪ねた。ここは多くの檀園高校のセウォル号被害者の幼い頃の思い出が詰まった公園でもある。追悼施設は花郎遊園地の南側の2万3千平方メートルの敷地に造成される予定だ。4・16セウォル号惨事家族協議会の追悼部所長のチョン・ブジャさんは、公園をぐるりと見まわしながら説明した。「セウォル号犠牲者の家族は、過去に起きたほかの社会的惨事の犠牲者の墓地など、いろんな場所を見学しました。犠牲者をまつる墓地に行ってみると、大きくて見せるための空間もあり、あまりに人里離れた寂しい場所で家族もぞくっとするような所もありました。そのような場所よりは、こうした惨事が二度と繰り返されないようにするために、アクセスの良い所、犠牲になった子どもたちの思い出のある所へ持ってこなければと考えました」

 しかし、遺族の思いとは異なり、一部の地域住民の反応は冷ややかだった。チョンさんは「私たちが子どもたちを見送ったあと、選挙シーズンごとに政治的にたくさん利用されました。ある政治家は、花喪輿(棺を運ぶ籠のようなもの)を作って鐘を鳴らして歩き回ったりしました。その姿を見て、市民から『骨壺は自宅の居間に置いておけ』『遺体を宣伝に使うのはやめろ』なんていうことも数えきれないほど言われました」。激しい反対にもかかわらず、日常の空間に追悼施設を建てなければならないという考えに変わりはない。8年間、地域住民と数多くの討論・議論を経た末に「それでも最初のころよりは親しい仲になり、理解してもらえてきた雰囲気」だという。

 明知大学記録情報科学専門大学院のキム・イクハン教授は、セウォル号の記憶空間をどのように見つめ、保存すべきかについて、米国同時多発テロ後に造成されたニューヨークの「グラウンド・ゼロ」、ドイツの「ベルリン・ユダヤ博物館」などを挙げて説明する。どちらも市民の日常的な生活空間のなかで惨事を感覚的に振り返ることのできる場所だ。キム教授は「時間が経てばセウォル号惨事に対する市民の関心が冷めていくのは避けられない。しかしセウォル号惨事は、私たちの暮らし全体において様々な側面を変化させた事件だ。人間の貪欲さが大惨事を招きうるということ、(「じっとしていろ」ではなく)子どもたちが主体となる教育が必要だということなどを教えてくれた。これを社会的記憶として形成するための国家的、市民的努力が必要だ」と語った。

珍島、木浦、安山/シン・ソユン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1039170.html韓国語原文入力:2022-04-16 11:04
訳C.M

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