釜山東区凡一洞(ポムイルドン)の在韓米軍55補給廠は、日帝強制占領期(日本の植民地時代)に日本が作ったもので、釜山(プサン)の屈曲した近代史を映し出している。1941年、太平洋戦争を起こした日本は国家総動員法を制定し、1945年の敗戦まで朝鮮など植民地の資源を総動員した。当時、日本は石炭などの軍需物資を保管するために55補給廠を作った。55補給廠の隣には、当時釜山港の波止場労働者などが住んでいた埋め立て地もある。現在、この一帯には北港再開発地域や釜山港国際旅客ターミナル、釜山駅、門ヒョン金融団地などが位置している。
解放後、米軍は55補給廠を引き継いだ。規模は21万7755平方メートルだった。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、米軍は日帝強占期に競馬場と日本軍騎馬部隊の訓練場として使われた釜山鎮区凡田(ポムジョン)・蓮池(ヨンジ)・楊亭(ヤンジョン)洞一帯53万3828平方メートルの敷地に、米軍釜山基地司令部のハヤリア基地を建てた。
1995年にハヤリア基地と55補給廠の敷地を取り戻すための運動が始まった。在韓米軍は2002年に韓米連合土地管理計画の改定で、ハヤリア基地の敷地返還を決定した。しかし、戦略的価値が大きかった55補給廠は返還対象から除外された。在韓米軍は2004年8月、ハヤリア基地の跡地を国防部に返還すると約束し、2006年に基地を離れた。2014年、ハヤリア基地の敷地は釜山市民公園になった。在韓米軍の釜山基地司令部が設置されてから64年がたってのことだった。
在韓米軍が依然として使用する55補給廠を返してもらうため、市民たちが再び力を合わせた。60以上の釜山の市民社会団体で構成された「米軍55補給廠の返還に向けた汎市民運動本部」は29日、釜山(プサン)市議会で発足記者会見を開いた。
パク・ジェユル汎市民運動本部常任共同代表は「55補給廠の返還運動に保守と進歩にかかわらず、全ての市民団体が参加した。北港を親水空間として開発し、市民の空間にする過程において、55補給廠が古傷のように残っていてはならない。住民が地域を経営し、発展させていく地方分権時代にふさわしく、55補給廠の返還運動に積極的に取り組む。政府や釜山市、政界も力を添えてほしい」と求めた。