1999年5月、「ハンギョレ21」には衝撃的なルポが掲載された。「ああ、身震いするような韓国軍!」というタイトルの記事は、ベトナム戦当時の1969年10月、ベトナム南部戦線の各地で韓国軍が民間人を集団暴行した後、殺害したという内容だった。ベトナム派遣韓国軍の民間人虐殺が国内メディアの報道で初めて知られた瞬間だった。20年近く経った今、韓国軍のベトナム民間人虐殺は歴史的事実として次々と確認されているが、後続措置はいまだに微々たるものだ。このような中、市民社会で悲劇的な真実を究明し、「加害国」の国民としてどのようなことができるかを模索する大衆講演と討論会が開かれ、注目を集めた。
3日午後、ソウル東大門区祭基洞(チェギドン)にある歴史問題研究所5階の講堂「観智軒」は、100人あまりの人でぎっしり埋まった。韓国現代史研究者の藤井たけし研究員の講演を聞きにきた市民たちだ。講演のタイトルは「『加害国』国民として生きるーベトナム戦争、国家、そして『私』」。来月18日から1週間開かれる「ベトナム戦争時の韓国軍による民間人虐殺真相究明のための市民平和法廷」を控えて設けられた場だった。
市民平和法定準備委員会と歴史問題研究所が共同主催したこの日の講演のテーマは、依然として政治的に、また学術的に敏感で難しい問題だ。だが、講演会場を訪れた市民らの関心と熱気は高かった。事前申請者が早いうちから収容人員を超えると、主催側が了解を得てフェイスブックで生中継するほどだった。
藤井研究員はまず、「日本人の私が韓国軍のベトナム民間人虐殺について述べることができるかと迷ったが、長い間『加害国国民』であり韓国現代史の研究者として暮らしながら、この問題が韓国社会が良い方向へと変わるのに非常に重要だと考えた」と明らかにした。彼は「1990年代、日本から大学に通っていた当時、天皇制反対運動に参加し、かつての日本帝国主義のアジア諸国侵略の歴史をはじめ、さまざまな人権問題に目覚めるようになった」とし、「二十歳ごろ、私が日本人、男性、非障害者などすべての面で『加害者』の地位にあるということを認識して『私は死んで当然だ』という結論を下した」と言い、笑いを誘った。彼はしかし、「そのような考えは被害者たちとは関係なく、強い倫理主義に基づいた個人的な決断にすぎず、視野を狭めること」だとし、「責任を負うということは『自己否定』ではなく、加害者と被害者たちとの『連帯』から出発しなければならない」と話した。
彼は「戦争で野蛮的暴力の直接の行為者は国家に動員された個人によって行われるため、『国家暴力』という抽象的な表現では被害者・加害者ともに具体性を失い、ある集団に還元され、『外交問題』になってしまう」とし、「これは、国家が行わせた暴力で結ばれた関係を変えることすらも、国家に帰属するという結果を生む」と指摘した。問題はここに止まらない。月日が経ち、直接的な加害者と被害者たちよりもその後の世代が多くなった状況で、『加害国』の国民の多くは「なぜ私がしていないことに責任を負わなければならないのか」と疑問を持つようになる。藤井研究員はこれに対して、「『加害者ー被害者』という対立構図からアプローチする場合、『主体』が『構造』に還元され、双方にとって実質的変化の可能性は失われてしまう」とし、「個人的倫理意識の境界(線)を超える時だけ、そのような限界を乗り越えて『過去の清算』が『未来の生産』という望ましい方向に進むことができる」と話した。
彼はまた、「国家の責任を問うのは必要で重要だが、そのような行為自体が何を作り出すのか、何を、なぜするのかに対する『自覚的意識』を持たなければならない」と強調した。市民平和法廷は国家暴力を立証する席だが、単純に被害事実を聞くのは被害者の暮らしを見落とすものになるため「現在の私たちの暮らしと彼らの暮らしを連結させる話を聞かなければならない」ということだ。例えば、今日のベトナムのサムスン電子工場労働者は週平均70時間働き、韓国人の国際結婚の配偶者の70%以上がベトナム女性(平均年齢20代)である上に、見合いをして3日以内の結婚率が60.6%にのぼるが、藤井研究員は「これは事実上の人身売買」だと指摘した。藤井研究員は結論として「過去の清算は結果より過程がもっと重要な場合もあり、その過程の中で誰とともに、どのような未来を想像することができるか」が重要だと強調した。