10代で連行され、遠い異国地方に隔離配置され、毎日戦場の兵士たちを数十人ずつ相手しなければならなかった彼女たち。言葉通り獣以下に扱われ、陵辱され、暴行や斬首などで多くの人が死んでいった。日本の右翼歴史修正主義者らは強制性のない「自発的な売春」だったと言い張るが、天に唾するようなものだ。生存者たちの証言によると、多数が拉致されており、お金を稼げると言った嘘も、隔離空間で選択の余地もなく、強要された残酷な「慰安」行為また、明白な強制だった。
千辛万苦の末に生きて帰ってきてからも、誰にも歓迎されなかった彼女の血のにじむ証言は、突如落とされた雷のように、私たちが彼女らについてどれだけ無知だったかを気づかせる。「取材途中、テープ録音機を投げつけ」(ファン・クムジュさん)、「日本人とは話したくない」(パク・ヨンシムさん)と言いながら何度も証言をやめようとし、「日本に行って日本人を皆刀で刺してしまいたい」(キム・ヨンスクさん)と叫んでいたハルモニ(おばあさん)たち。彼女らの話を聞いて苦しみながらも、文と写真と動画で数十年間にわたり世間に知らせてきた伊藤氏に対して(韓国人として)むしろ恥ずかしいほどだ。
元々伊藤氏は平凡な普通の日本人だった。ドキュメンタリー写真に関心を持っていた彼は、1981年に広島と長崎で米国が投下した原子爆弾の被害を取材した際、7万人に達する朝鮮人が被爆されたという事実を知り、「多大な衝撃」を受けた。その時から韓日の被爆者たちを取材し始め、強制労働被害者と軍需工場に勤労挺身隊などで連れて行かれて「慰安婦」として動員された女性たちに会った。取材範囲は北朝鮮や、中国、東南アジア、ロシアなどに広がり、そのたびに日本と日本人に対する被害者の「激しい怒り」に直面した。
彼が会ったアジア太平洋地域被害者たちは800人以上に達する。そうしているうちに、1991年8月14日、驚くべき事態を目にした。日本軍「慰安婦」被害者ハルモニのうち金学順(キム・ハクスン)さんが初めて公開的に自分の被害を明らかにしたのだ。この証言により、加害者や被害者いずれも口をつぐんでいた“沈黙のタブー”が破れ、アジア各地で数万人の被害者が証言に乗り出した。「アジア蔑視の考えに基づいて日本が犯した侵略戦争の本質が明らかになった」と伊藤氏は書いた。
伊藤氏はその後、韓国を皮切りに、金学順さんを含め、北朝鮮、中国、オランダ人を含めた東南アジア地域の被害者たちまで合わせて90人以上のハルモニたちに会った。同書には1990年代初めから彼が取材してきた慰安婦被害者のうち、韓国から9人、北朝鮮から11人など合わせて20人のハルモニたちの話を盛り込んだ。取材当時、すでに80歳前後だった彼女らは皆すでに帰らぬ人となった。韓国政府に登録された被害者238人のうち最高齢(100歳)生存者だったイ・スンドクさんが今月4日にこの世を去り、生存者は38人に減った。
日本刀で切り刻み、全身に落書きのような入れ墨を刻み込み、言うとおりにしないと無慈悲に暴行し、見せしめに首を切るなどの蛮行を犯した日本軍の話は凄絶だ。彼らは敗戦頃には証拠隠滅のために数十人、時には百数十人ずつ慰安婦たちを集団虐殺したという。
著者がそうだったように、今日、多くの日本人は「被害者日本」は知っていても「加害者日本」についてはよく知らないようだ。慰安婦被害者に関するインターネット上の悪意的なコメントも、自国が犯した醜悪な過去の出来事に無知であるからかもしれない。被害者たちの話をまともに聞こうとも、助けようともしなかった朝鮮半島内部の理解に欠いた偏狭な考え方も、彼らの無知と無視を促したはずだ。加害者の世界観、価値観と似ていったからだろうか。
「取材を続けた理由は、何よりも日本の重大な国家犯罪を明確に究明することが、日本の現在と未来のために必要だと確信していたからだ。(…)日本人ジャーナリストがやらなければならないのは、過去に日本から被害を受けた人々の声を多くの人々に伝えていくことだ」