1945年8月6日、広島に落とされた原爆が本当に第2次世界大戦を早期終結させたと言えるのか。原爆投下の正当性を巡るこの「根源的問い」に対し、明快な解答を出すことは容易でない。 しかし、これまで公開された米日両国の極秘文書や証言を通してある程度の絵を描くことはできる。
米国で核開発が始められたのは1939年8月、ハンガリー出身の科学者レオ・シラードがフランクリン・ルーズベルト大統領に「ドイツが核分裂を利用した新型爆弾を開発する可能性がある」という書簡を送ってからだ。 この書簡に世界最高の物理学者であったアルバート・アインシュタインも署名をしたということはよく知られたエピソードだ。
以後、米国の核開発は1942年9月に始まった「マンハッタン計画」という極秘計画として具体化される。 米国はこの事業に3年間20億ドルという天文学的資金と延べ12万人の人員を動員する。 結局、米国は1945年7月19日にニューメキシコのアラモゴード砂漠で初のプルトニウム型原子爆弾実験を成功させ、人類歴史上初の核兵器を手にすることになる。
当時米国は1945年2月のヤルタ会談で、ドイツが崩壊すれば3カ月後にソ連が対日戦争に参加するという極秘合意を結んであった。 しかし共通の敵であるドイツが崩壊した後、米国とソ連はヨーロッパの戦後処理を巡って本格的な体制対決を始める。 このような状況で米国は原爆で戦争を終結させるならば、戦後国際秩序を確立して行く上でソ連より優位に立つことができ、莫大な税金を消費したマンハッタン計画に対する国内的な名分も確保できるという点を考慮したとみられる。 実際、米国立公文書館で発見されたジェームズ・バーンズ戦時動員局長(後に国務長官)が1945年3月3日にルーズベルト大統領に送った書簡では、「もし(マンハッタン計画が)失敗に終われば、その時は厳しい調査と批判を受けることになるだろう」という憂慮を伝えている。 それだけでなく米国は日本が沖縄戦で見せた「特攻作戦」(自殺攻撃)に驚き、日本本土への上陸作戦遂行に大きな負担を感じていた。 答えは結局、原爆だった。
一方、日本の首脳部は敗戦を既定の事実として受け入れながらも、戦争を終わらせる決断を容易に下せずにいた。 2012年8月15日に日本のNHK放送が放映した「終戦なぜ早く決められなかったのか」によれば、「決断を下すことができない」日本首脳部の無能が生々しく記録されている。 敗色濃厚になると鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、陸海軍の首脳部など6人が集まり秘密会議を続けるが、明確な「講和条件」を連合軍に提示することに失敗したということだ。
当時日本では「最後に米国に大きな打撃を被らせ、少しでも有利な講和条件を導き出さなければならない」、「ソ連を通じて講和交渉の仲裁を任せよう」という机上の空論を続けていた。 しかし、これは1945年7月26日、米英ソがポツダム宣言を通じて日本に無条件降伏を要求し白昼夢に終わることになる。 結局、日本の首脳部が決断を先送りしている間に沖縄戦と二度の原爆投下により60万人の無辜の人命が犠牲になるに至る。 このような日本内部の問題まで米国のせいにすることは穏当でない。
原爆が戦争を早期終結させたかという問いに対して明確な結論を出すことは難しいが、原爆投下が朝鮮半島を含む世界情勢を決定したことは明らかな事実だ。 米国の原爆投下が遅れたとすれば、ソ連が朝鮮半島を全て占領することがありえ、より早かったならばソ連の朝鮮半島南下がされなかっただろうと分析する専門家たちもいる。
しかし冷戦期に世界平和を維持したのは米国の核独占ではなく核拡散だった。 セオドア・ホール(1925~1999)などマンハッタン計画に参加した一部の科学者は核開発に関連した極秘資料をソ連に渡す。 これを基礎にソ連は米国の初の核実験成功から4年後に核開発を成し遂げることになる。 以後人類は一方が核兵器を使えば直ちに報復攻撃を受けることになり、人類全体が滅亡するという相互確証破壊、すなわちMAD(Mutual Assured Destruction)戦略に依存し、恐怖の均衡を継続している。
東京/キル・ユンヒョン特派員