先月29日午前、ソウル鍾路区玉仁(オギン)洞で30段余りある石段に出会った。 頭を上げてみると、石段の先に惨い歳月を経た大きな韓国式家屋があった。古木で作られた濃い茶色の格子模様の窓の桟が見えた。 階段を上がり、軒下を見ると繊細に削って作られた装飾に目を惹きつけられる。 朝鮮時代の民家では珍しい当時の最上流層の住宅であることを感じさせる建築技法だ。
1910年代に建てられたこの住宅(尹氏家屋)は、親日派の尹徳栄(ユン・ドクヨン 1873~1940)の妾が暮らした家だ。純貞孝(スン・ジョンヒョ)皇后(純宗の皇后)の伯父だった尹徳栄は、強大な権力を振り回し、この韓国式家屋を含め玉仁洞47番地一帯に多くの家屋を所有していた。 以後、朝鮮戦争を経て主人が変わり、今は7世帯がこの韓国式家屋を分割所有して暮らしている。 アン・チャンモ京畿大教授(建築設計)は「親日派が暮らした家ということであっても、構造が独特で民家では珍しいすばらしい装飾の希少な建物」と説明した。
“ギイッ”という音をあげ、閉じられていた門が開かれた。各種の世帯道具が乱雑に置かれている中庭の様子が垣間見えた。一人の老婆が出てきてたばこを咥えた。ここで53年間暮らしているというパク・スンファ氏(80)だ。「この家に入る前から近所でずっと暮らしていたよ。5歳の時、尹徳栄の葬式も見た。 午前3時に母親が起こされたんだ」
また石段を一つずつ歩いた。一歩踏み出すたびに頭の中には想像が湧いてくる。「1910年頃にこの家に暮らした人も同じようにこの階段を踏んだのだろう」。「家に行き来するたびに、彼が眺めた仁王山(イヌァンサン)の感じはどうだっただろうか?」。想像が広がる。これが“本物”だけが持つ力だ。
この日午前、玉仁洞の尹氏家屋を訪ねた後、尹氏家屋を復元した建物があるというソウル中区筆洞の南山谷(ナムサンゴル)の韓屋村を訪れた。だがオリジナルの感動はなかった。博物館の中の模型のようだった。 そこには仁王山がない。謙斎・チョン・ソンが描いた仁王霽色図(真景山水図)の右側の山の斜面に置かれているような感じは再現できない。 玉仁洞で見ることのできた30段余りの階段は5段に縮小されていた。 階段の脇に立てられていた石の装飾もない。 想像は広がらない。
ソン・インホ・ソウル市立大ソウル学研究所長は「歴史建築物は本来あった場所になければならない」と話した。「その場から眺める風景、その場所に積層されている時間の層位などは本来あった場所にある時にだけ感じられる。 特に韓国式家屋の場合は“マダン(広場)”という外部空間と“チェ(棟)”という内部空間の関係が重要なので、本来あった地にあってこそ価値が高い。場所を移せば韓国式家屋としての力と価値を失う」
南山谷に復元された5軒のうち
唯一元々あった場所に残る
1910年代に建てられた尹徳栄の家
「親日派の家」を超えて装飾が際立つ建物
切迫した再開発の夢に押されて
「壊しても良い」最高裁判決
600年を歴史都市とは信じられない“記憶の削除”
もう一つの過去が震えている
■危機に処した尹氏家屋
しかしオリジナルである尹氏家屋は消え去る可能性が高まった。先月4日、大法院(最高裁)は“移転復元”を主張した再開発組合側の手を挙げた。 本来あった場所にそのまま残すか、移転し復元させるかを巡って組合は鍾路区庁との訴訟を繰り広げた。 もちろん事業性も確保しなければならないため、実際に再開発がなされるか否かはまだ分からない。
以前にも尹氏家屋は数回消え去る危機に瀕した。最初の危機は1997年だった。 1977年3月17日に「ソウル市指定文化財」(民俗文化財23号)に指定されたこの韓国式家屋は、1997年2月20日に指定解除された。 ソウル市文化財研究チーム関係者は「当時は南山谷韓屋村に尹氏家屋を含めソウルの主要韓国式家屋が移転された時期だった。 韓屋村に同じように復元される予定であったし、ひどく古く崩壊の危険があるという嘆願が繰り返し提起されており、現場調査を経て指定文化財から解除したと記録されている」と説明した。 文化財という“保護膜”が剥けた韓国式家屋は容易に解体される運命に処する。
1998年に作られた南山谷韓屋村に復元されたソウルの有名韓国式家屋5個のうち、尹氏家屋を除く4個は元来あった場所から消えた。 だが、全て民俗文化財の地位を維持している。建物を解体し元の材料をそのまま持って行き、韓屋村に復元したためだ。 皮肉なことに5個の韓国式家屋のうち唯一オリジナルが残っている玉仁洞の尹氏家屋は文化財ではない。復元した建物も同じだ。尹氏家屋の2度目の危機は2007年に訪れた。 玉仁洞でも再開発が推進され始めた。 当時、鍾路区庁は再開発のために尹氏家屋を“移転復元”しなさいと命じ、開発開始の直前段階である事業施行認可まで与えた。 そうするうちに2011年10月、ソウル市で現在のパク・ウォンスン市長が就任し、韓国式家屋の政策が変わり、今まで再開発組合と鍾路区庁間に法的攻防が続いてきた。
■記憶が消える都市
ソウルが600年の歴史都市とは言っても、宮廷を訪れない限りは日常の中で古の文化の情緒を見つけることは容易でない。 地下鉄西大門(ソデムン)駅脇の現代式建物の前にある「金宗瑞(キム・ジョンソ)家跡」という立て札は何の感慨も伝えてはくれない。 金宗瑞は朝鮮端宗の時に左議政を務めた人物だ。 ソウル鍾路区桂洞(ケドン)の独立活動家、夢陽・呂運亨(ヨ・ウニョン 1886~1947)私邸もカルグクス(韓国式うどん)店として利用され火事になって今はない。今は表示石だけが残っている。
1970~80年代に開発旋風が起きてソウルの文化財は一つ二つと消えていった。韓屋村に復元された都片手李承業家屋があった中区三角洞の跡地には建物の全面がガラスで建築されたミレアセットのビルディングなどが聳えている。
イ・チャンヒョン国民大教授(元ソウル研究院長)は「成長パラダイムを越え持続可能な都市政策を実現しようとしている今、歴史と文化を回復するか、あるいは記憶の要素を破壊して自らのアイデンティティを否定するかの岐路に立った」と語る。イ教授は「都市は歴史と文化のアイデンティティを確保するために、都市空間に記憶の要素を残さなければならず、またそれを通じて市民が都市の歴史的伝統を作るべきだ」と指摘した。
ホ・ギョンジン延世大教授(国文学)は「根拠が残っていれば歴史を再び作ることができるが、根拠まで失えば歴史の復元が不可能になる」と強調した。「玉仁洞47番地の松石園跡には秋史・金正喜(キム・ジョンヒ)が書いた岩文字一つだけが地中に埋もれている。 だが、私たちはその岩文字一つを持って18世紀後半の中人(両班より下、平民より上の階層)たちの文学の集いである松石園詩社とそれ以前からこの一帯に住居を建て庭園を作り、朝鮮の歴史を導いた安東(アンドン)金氏、驪興(ヨフン)閔氏、海平尹氏外戚による200年派閥政治とその文化を再現できた」
ソウルの街は絶えず変わっている。 若かりし頃の思い出を十分噛みしめられる大学のキャンパス空間には、新しい建物が生まれて刻々と変化する。 2013年延世大が「白楊路再創造事業」を始めると、「延世キャンパスを愛する教授の会」は「学校が白楊路の歴史的価値を無視している」として強く反対し葛藤を生んだ。“変わらない空間”はますますなくなっている。 もちろん開発を待ち望み、苦労しながら耐えてきた市民の立場も重要という指摘も多い。 玉仁洞組合側では「古い韓国式家屋ひとつのために再開発が遅れ、家の修理もできずに苦労して暮らしてきた」と主張してきた。
市民の生活と歴史文化の回復、両者をソウル市がどのように調整出来るかに関心が集まっている。 パク・ソウル市長は2011年の就任初期から歴史文化を強調して「故郷のようなソウル」を作ると強調してきた。玉仁洞再開発と関連して、同市のムン・インシク韓国式家屋造成課長は「管理処分認可が出ておらず、再開発区域が最終確定していない状態で(韓国式家屋保存のための)何らかの方針を話すことは困難だ」と話した。