『略奪文化財は誰のものか』
荒井信一著、イ・テジン、キム・ウンジュ共訳
テハク社(2014)
「ほとんどの墓が、原形を留めないほどの惨状(…) 昨年発生した江華島暴徒蜂起事件などは、高麗陶磁器盗掘などの乱暴な実状に憤慨して起きたのではないかと思われるほどだった。」 日本植民地時代、考古学者 梅原末治が日露戦争(1904~5)勃発後、開城(ケソン)と江華島(カンファド)一帯で大規模に行なわれた墳墓盗掘現場を見て回って残した文だ。
そこだけではなかった。 「(開城の)王陵群付近(中西面杜門洞)に行けば無数の墳墓が掘り返されて、山と丘がすべて蜂の巣のように穴があいている。」
1909年の春、江華島に行った仁川(インチョン)気象観測所長 和田雄治は、千を数える盗掘された墳墓の惨状が「まるで日露戦争の激戦地、旅順の要塞付近の砲弾落下地域のようだ」と言っている。そのようにして掻き集めて行った高麗磁器は、日本で非常な高値で取引された。
日本の進歩的歴史研究者荒井信一が書いた『略奪文化財は誰のものか』(原題:『コロニアリズムと文化財』)に出てくる内容だ。
初代統監 伊藤博文も略奪された高麗磁器の熱狂的な収集家だった。当時、ソウルに住んでいた日本人弁護士三宅長策は、高麗青磁の盗掘と闇取引で食べている者が数千人にものぼるとしている。伊藤は1909年に購入した新羅・高麗磁器類や古美術品の中で最も優れた103点を明治天皇に献上した。
強制合併前からすでにそうだった。略奪屋たちが朝鮮全域の遺跡を歩き回ってむしり取っていくとき、武装した日本の巡査(警察)と日本の軍隊が彼らに宿所を提供し保護した。中塚明 奈良女子大名誉教授は、そのような略奪は、陸軍大臣や軍司令官の指揮の下、日本の皇室や帝国博物館などが共謀した国家的事業だったと指摘する。<韓国古建築調査報告書>を書いた関野貞、“小倉コレクション”で有名な小倉武之助、“河合文庫”の河合弘民などもまた、共謀者に他ならなかった。
2010年韓国国立文化財研究所は、日本に搬出された韓半島の文化財が6万1409点を超えると発表した。 林容子 尚美学園大学教授は、日本国内の韓国文化財が、分かっているものだけで約2万9000点だとし、しかしそれらのうち博物館や美術館で公開されているものは全体の10%にもならないとした。 さらに、日本国内の個人所蔵の韓国文化財は30万点近いと推算されている。
これはすなわち、私たちのアイデンティティや記憶を構成する源泉のかなりの部分、おそらく最も大切な部分が事実上永久に失われたという意味だ。 それでもかろうじて残っていた源泉もまた、南北分断と戦争により分節されて散らばり、韓半島の歴史は日本の植民支配以来ほぼ解体状態で放置されているわけだ。
中国の考古学研究者チャン・ジチョンの『近世百年の中国文物流失史』(人間愛 発行、2014)を訳した翻訳家パク・チョンイルは、1840年のアヘン戦争以後、略奪と盗掘などで海外に流失した中国の文化財が1000万点、そのうち国家1~2級文物だけでも100万点余りとした。ユネスコは47カ国200余の博物館が164万点の中国の文物を所蔵しており、民間所蔵の中国文物はその10倍と推算しているそうだ。有名な“北京原人”の頭蓋骨もそのようにして消えた。それらの野蛮な略奪過程は私たちのケースと大して変わらない。しかも、私たちには、そのような文物受難史をまとめたまともな本すらないと、訳者は嘆息する。
ハン・スンドン文化部記者 sdhan@hani.co.kr