「このままでは部下たちが皆殺されるかもしれない。若干の犠牲者が出ても射撃をして立ち向かおう」
1980年5月21日、光州の錦南路(クムナムロ)の全南道庁(現・国立アジア文化殿堂)前にいた第11空輸特戦旅団のC少佐は、軍に提出した「5・18回顧」という文で、当時の大隊長会議の雰囲気を詳しく説明した。会議である将校が(市民に対する)射撃を提案した。錦南路での集団発砲前、軍人と市民が対峙していた時だった。
当時62大隊長の故イ・ジェウォン中佐だけは「何を言っているのか!とんでもないことを言うな」と怒号を上げ、指揮棒を投げつけた。この姿を見ていたC少佐は「視野が狭かった私たちは『本当に話が通じない大隊長だな』と思った」と書いた。そのようにイ中佐が反対したにもかかわらず、照準射撃など集団発砲により非武装の市民41人が死亡した。イ中佐は1995年、ソウル地検の「12・12および5・18事件」特別捜査本部調査で、「光州事件の責任は私をはじめとして当時光州事件の鎮圧に参加したすべての軍人にある」と述べた。
イ中佐のように、光州民主化運動当時、全斗煥(チョン・ドゥファン)反乱勢力に抵抗し民間人の犠牲を心配した軍人たちの行動に注目が集まってる。
当時、軍の戦車動員指示を拒否したイ・グホ将軍(1933〜1999)は、市民に対する武力鎮圧に反対した人物だ。イ将軍は1980年5月21日午後4時頃、ファン・ヨンシ陸軍参謀次長に「参謀次長だが、暴徒を鎮圧して道庁を占領するために戦車を動員しなければならない。1個大隊(32台)を動員せよ」と指示されたが、それを拒否した。イ将軍は「もし(戦車)動員を要請するなら、正式な指揮系統を通じて命令してほしい」と言い返した。戒厳副司令官のファン次長が「この野郎、戦車砲を撃ちながら押し進めば済むことではないか」と怒鳴ったが、イ将軍は電話を切った。彼は「光州市民は敵軍ではないのに、どうやって市民に向かって発砲しろというのか」として、最後まで誤った命令を拒否した。ムグンファ(むくげの花)が好きだった彼は軍を離れた後、弟と共に「ムグンファガソリンスタンド」を運営し、亡くなった。
キム・ギソク当時戦闘教育司令部(戦教司)副司令官(少将、1931〜2010)も新軍部の無慈悲な鎮圧に反発した人物と評価される。キム副司令官は生前、「当時、光州事件に対する実質的指示は戒厳司令官よりもファン・ヨンシ(戒厳副司令官)の方が関心を持って指揮を執った」とし、「さらには『武装ヘリコプターや電車があるのに、なぜ使わないのか』とまで話した」と証言した。キム副司令官は5月24日、全斗煥の最側近である保安司令部のチェ・イェソプ企画調整室長(准将、1929~2019)と市民収拾対策案を巡る意見の相違で反発し、銃を突きつけて衝突することもあった。キム副司令官が5月23日11時40分に書いた直筆のメモには「市民を暴徒とみなさず、帰宅させる措置」という内容が含まれている。
全羅南道警察局長だったアン・ビョンハ治安監(1928〜1988)は5・18民主化運動当時、市民に発砲しろという全斗煥反乱勢力の命令を拒否した人物だ。陸軍士官学校(8期)を卒業して中佐に転役した後、総警(警視正に相当)として特別採用され警察に入ったアン氏は、1980年5月25日、「市民に向かって銃を撃つことはできない」として、新軍部の強制鎮圧命令を拒否し職位解除された。合同捜査本部に連行されて拷問捜査を受け、後遺症に苦しみ、1988年10月にこの世を去った。2002年に5・18民主有功者と認定されるとともに、2017年11月に「第1号警察英雄」に選ばれ、警務官から治安監として1階級特進した。
国民大学校政治大学院のノ・ヒジュン兼任教授は先月30日、5・18記念財団主催で開かれた学術討論会で、「民主化運動当時、戒厳軍は新軍部がハナ会(全斗煥が率いた陸軍内の秘密組織)を中心に軍を掌握しており、絶対的な服従が強調される状況だった」とし、「だが、2024年の戒厳軍はスマートフォンとインターネットを通じてリアルタイムで情報を共有することができ、指揮部の命令に消極的だった」と分析した。