2018年10月の最高裁(大法院)判決後、4年半にかけて続いた強制動員被害者の賠償問題をめぐる韓日の対立は、6日の尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権の「白旗投降」で終わった。日本に植民地支配の不法性を認めさせ、正当な謝罪と賠償を受けるという韓国市民社会の激しい戦後補償闘争もまた、「巨大な失敗」で幕を下ろされる危機に置かれている。1965年の韓日協定、2015年末の「慰安婦」合意に続き、韓日歴史問題を正当に解決しようとする韓国の人々の熱望に冷水を浴びせた「3回目の封印」と言える。
大韓民国は解放後、日本と国交を再開する過程で、植民地支配に対する不法性を認めさせるため、13年8カ月にわたる凄絶な交渉を続けた。その結果は、1965年6月22日に東京で正式に署名された「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」第2条に書き込まれた。韓日は「1910年8月22日(併合条約)以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約(乙巳條約など)及び協定は、もはや無効であることが確認される」という結論に達した。
これといった特色がなさそうなこの文章は、きわどい緊張の中でバランスを保っている。韓国は「(以前の条約が)無効であることが確認される」という文言を「併合条約などは最初から不法・無効」と解釈したのに対し、日本は「もはや」という副詞を通じて「本来は合法・有効だったが、日本の降伏と韓国の建国により1965年現在は無効になった」と解釈した。解決不可能な歴史問題を封じ込めた苦肉の策だった。その見返りに、韓国は日本から無償3億ドル、有償2億ドルの請求権資金を受け、後に「漢江の奇跡」と呼ばれる経済開発の枠組みを整えた。
2回目の封印は、2015年12月になされた。1回目の封印の厚い壁を破ったのは、1991年8月、自身が慰安婦だったことを初めて明らかにした金学順(キム・ハクスン)さん(1924~1997)の孤独な叫びだった。その後、慰安婦被害者の苦痛に共感し、彼女たちの名誉を回復し、日本政府から正しい謝罪を引き出すことは、韓国社会が必ず成し遂げなければならない「時代的課題」となった。
しかし、韓日請求権問題が「完全にそして最終的に解決された」と宣言した1回目の封印の壁は高く、分厚かった。日本政府は1995年7月、「女性のためのアジア平和国民基金」(女性基金)を設けたが、「65年体制」を理由に「政府予算は投入できない」と粘った。韓国社会は慰安婦問題が国家犯罪であることを認めないまま「道義的責任」だけを認めた「女性基金」を拒否した。韓国の市民社会は激しい法的闘争の末、2011年8月に日本政府と交渉しない韓国政府の「不作為」は違憲という歴史的な憲法裁判所の決定を勝ち取ることになる。
その後、韓日両国は4年にわたる殺伐とした外交交渉の末、2015年末に「12・28合意」に至った。安倍晋三元首相はこれまで認めてきた「道義的責任」から一歩進んで、日本の「責任を痛感する」と宣言し、10億円(約108億ウォン)の政府予算を基金に拠出した。韓国はその代償として、慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に解決」するという文言を受け入れなければならなかった。この合意は韓国の立場としては残念極まりない妥協だったが、成果があったのも事実だ。合意が公開された後、日本の極右ジャーナリスト、櫻井よしこ氏は悔しさを露わにした。
尹錫悦政権は、最善の外交努力を傾けて最小限の「利益のバランス」を合わせるべく努める代わりに、強制動員被害者の30年余りにわたる闘争の成果である最高裁判決を自ら貶めた。6日のブリーフィングに出席した大統領室の当局者は、この判決について「国際法的に、そして1965年の韓日両国政府の約束に照らし、日本は韓国が合意を破ったという結論を下した」と述べた。大統領室の当局者が、公式ブリーフィングで最高裁判決を擁護する代わりに日本の立場をかばったのだ。その結果、昨年7~9月に官民委員会の結論だった日本企業の「謝罪」と「賠償参加」という目標の実現を目指した外交部の実務者たちの反対を押し切り、最高裁判決の趣旨を葬る安易で屈辱的な道を選んだ。自民党のある中堅議員は産経新聞に、「日本の完勝だ。何も譲っていない」と述べた。尹錫悦政権が選んだ3回目の封印の虚しい帰結だった。