<慶尚南道昌原SNT重工業で定年を控えたベビーブーム世代の労働者ユン・ジョンミンさんと彼の同僚たちは、30年間正規職の生産社員を採用していない会社に立ち向かい「若者を雇用せよ」と最後の闘争を行った。最後の闘争に出た彼らの平均年齢は57歳。まだ若者労働者は採用されておらず、1962年生まれの労働組合員23人は、昨年末に全員定年をむかえた。>
「自分はそうはならないと思っていたけど、涙が込み上げてきました」。慶尚南道昌原(チャンウォン)にあるSNT重工業の生産職労働者チョン・ソクチョルさん(61)も、定年をむかえた。2022年12月27日、若者のいない工場で、定年を控えた幾人かの同僚たちが労働組合事務室に飾りつけてくれた黄色や赤、ピンクの風船は滑稽でもあり、悲しくもあった。同僚たち一人ひとりを抱きしめ、ソクチョルさんは工場を去った。1986年8月から36年4カ月。彼が工場で過ごした時間は、韓国産業が中進国の水準を超え、先進国に至った期間と一致する。大工場・正規職労働の末に向き合う2023年の工場と自身の姿を、ソクチョルさんは一つひとつ思い浮かべてみた。
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一つ目の現在:結局は下請け労働者
工場の正規職労働者生活が終わり、チョン・ソクチョルさんに残ったことといえば、平凡な大韓民国の60歳の暮らしだ。息子は大学3年生。「就職するとしても非正規職になりそうなので」一人暮らしをする賃貸の初期費用くらいは用意してあげなければならない。アジア通貨危機、そしてその後の頻繁な休業で給料が未払いになったり削られたりしたため、退職金を中間精算した。なので退職金はもうない。4千万~5千万ウォン(約415~520万円)ほどの年収は、生活費に充てるだけでぎりぎりだった。個人年金に入るのは難しく、入っていたのは実費補償の医療保険とがん保険程度。せめてもの拠り所である国民年金は60歳から受け取ることができるが、受領額は少ない。できるだけ受給開始時期を先延ばしする計画だ。そうして、行きつくところも平凡な60歳の現状だ。「少なくとも65歳までは働かなきゃなりません。下請け工場に行きます。仕事はきついし、最低賃金です。そんな仕事だから若者たちが来なくて、空きがあるそうなんですよ」。結局、彼もまた下請け労働者となる。
ベビーブーム世代の完璧には引退できない定年、外注化で低くなった工場労働者の価値、そのような工場への就職を望まない若者たちがあいまって、工場はおのずと高齢の下請け労働者と非正規職が埋める傾向にある。生産職である技能・機械操作従事者のうち、55歳以上の労働者の割合は、2013年の22%(110万7千人)から昨年は36%(200万3千人、経済活動人口調査)まで増えた。民主労総金属労組慶南支部のイ・ソニム副支部長は「定年退職者が10人いても若者の正規職はほとんど採用せず、定年した後の労働者が穴を埋める」とし、「定年後には下請け業者で新しく仕事を始めたり、『小社長』形式(労働者が個人事業主として元の使用者と契約し、従前と同じような労働を提供する形)で本来いた工場に戻る場合が多く、労使交渉がうまくいった大きな工場ではシニア契約職として仕事を続ける」と説明した。
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二つ目の現在:消える技術の価値
下請け労働者として入る工場の姿を、ソクチョルさんは元同僚のキム・ミョンウさん(仮名・61)を見て推察する。彼は2021年、一年先に退社し、小社長業者(下請け業者)の所属で工場に戻った。40年間やってきた部品の加工を、同じ現場で同じチームのメンバーとそのまま行う。作業服の胸の名札が変わり、賃金だけが最低賃金の額に変わっただけだ。「フェンス一つ挟んで違う名札をつけて下請けになったから最初は居心地が悪かったけど、慣れたらこれくらいなら他の人よりましだと思った」。ミョンウさんは何でもないように話すが、自負を失ったことは否定しない。「入社した時はまだ『俺たちが最高だ』っていう、そんな気持ちがあったけど、仕事を引き継ぎする若い人がいるわけでもないし。虚しいよ」
最新の機械がキム・ミョンウさんの40年の技術を代替することができるだろうか。作業の過程を真似しながら同僚たちとかなり論争したが、答えは出なかった。はっきりしているのは「機械がいくら良くても、熟練した人の勘に合わせていけばより良いものを作り出せる」ということくらいだ。自動化しても人間は依然として必要だ。製造業の不足人員は昨年下半期には16万1101人に達し、1年前より30.9%増加した。機械にも愛着がわく。「古い機械」と同僚たちがからかうと、ミョンウさんはカッとなって「俺の機械を悪く言うな」と怒った。
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三つ目の現在:孤立後の命
当たり前のようにあった同僚たちとの冗談やぶつかり合いから離れ、チョン・ソクチョルさんは産業団地のある工場を一人で転々とするだろう。「言われたところにどこにでも行きますよ。もう覚悟してますから。ただ、体が心配です。穏やかでないニュースも聞こえてくるし」
昨年10月のひと月の間に、昌原産業団地で60代の労働者3人が相次いで労災で命を失った。一人は小社長であり、二人は下請け業者に属していた。各自の死を調査した民主労総慶南本部のキム・ビョンフン労働安全保健局長は「重要なのは、60才以上というよりもその方々が働いていた業者が全て小社長、下請け業者のように危険が管理されない事業場だったという点」だとし、「危険を感知したとしても、今のような元請け・下請け構造で労組もないのに、どこの誰に話せるだろうか」と述べた。
ひとつに絡まりあっている外注化、高齢化、技術の断絶、労働者の孤立、労災の危険…。先進国の韓国で工場労働者の現在を一つひとつ取り上げたソクチョルさんの結論は「申し訳なさ」だという。「大韓民国は発展したというけど、私たちの世代はまだ良かったと思います。今の若い人たちは非正規職で入ってきて、労組も同僚もいないし、技術を身につけることも難しいですから。これから生活の面ではどうなっていくのか。申し訳ないし、気の毒に思います」
定年退職日にソクチョルがもらった在職記念牌には「未来志向の社訓の精神を土台に渾身の情熱を尽くした」と刻まれている。1986年、「自分が持ちこたえられるか、緊張しながら」入社した工場で、チョン・ソクチョルさんが描いてきた未来はこのような姿ではなかった。2023年、若者にはいっそう持ちこたえるのが厳しくなった工場で、彼もまた同じ境遇に立つことになった。