<2023年、60歳のユン・ジョンミンさんは工場を去る。21歳のチェ・イェリンさんはすでに工場を去った。去る時に問うた。なぜ韓国は少数の人材にとどまらない、多数の労働者が主人公となる成功を夢見ることができないのか。ハンギョレは3回にわたって、平凡な労働者の熟練と価値をかえりみない革新、経済成長が個人と韓国社会に残した不安と警告について伝える。>
国内総生産1480億ドル(1987年、名目)から1兆8100億ドル(2021年)に至るまで。苦難を乗り越えて革新を繰り返しながら成長してきたようにみえる韓国産業は、少なからぬ陣痛も経験してきた。その中のひとつに、ユン・ジョンミンさんとSNT重工業の仲間たちが体験してきた「平凡な労働者の不安」がある。
少数人材ではない労働者は、韓国の効率的な成長を特徴づける熟練を排除する自動化、外注化、グローバル化の中で、より低賃金の労働者や機械に取って代わられるという経験をしてきた。あるいは取って代わられ得るという恐れにさらされてきた。仁荷大学のユン・ホンシク教授は、革新において平凡な労働者の重要性をかえりみずにきた韓国産業の軌跡こそ「成功と不安が一体であるかのようにくっついている韓国社会を作った背景」だと語る。
労働者が不安を感じる工場を作ってきた韓国産業史の主な事件をまとめた。それらは、外部からの衝撃や景気の流れを前にした、政府・企業・労働の利害と対立が複雑に絡んだ選択の結果だった。
(1)1986~1989年、経済成長と労働組合
3低好況期の1986~1988年には2桁の経済成長を遂げた。1987年の民主化と労働者大闘争により、その恩恵は労働者にも回ってきた。開発独裁のせいで生産性に比べ賃金上昇率が低かった労働者は、1988年から1990年にかけて毎年、前年に比べ10~18%の実質賃金上昇率(製造業の常用職)を成し遂げた。労働組合の組織率は、1989年には19.8%とピークに達した。民主国家においては、経済成長が労働者組織の拡大につながるのは自然だ。特に製造業の労働者は同質かつ普遍的なので組織化が容易だ。西欧社会が1960年代に経験したように、労働組合、資本、政府が互いにけん制したり妥協したりしつつ「資本主義の黄金期」を作り出す可能性が、韓国の歴史でも芽生えた。
しかし、このルートは省略された。韓国の製造業労働者の割合は28%(1989年)をピークとして急激に減少し、現在は16%ほど。製造業の雇用割合が20%を下回るのにかかった時間はたった11年。工場労働者にはドイツ(40年)や日本(28年)のように「職人」のような熟練に達する時間も、政治勢力となる時間も与えられなかった。代わりにサービス業中心のものへと雇用構造が変化した。サービス業労働者の多くは低賃金であるうえに不安定で、社会保険の死角地帯に取り残された。安定的で普遍的な製造業労働者を基盤として労働、政治、福祉構造を作り出すことのないまま成された韓国の雇用のサービス化は「早熟な脱産業化」とも呼ばれる。
(2)1990~1994年、新経営運動
好況は1990年に入って終わった。各工場では景気下降を克服するための「新経営運動」に火がついた。ある集計によれば、1994年には300大企業の85.1%が新経営運動を推進した。韓国における新経営運動は、結果的に労働者の熟練を排除する自動化・外注化と、差別的昇進制度などを通じた個人に対する労務管理の性格を帯びるようになった。
当初の意図は必ずしもそのようなものではなかった。当時は最高の生産方式と考えられていた日本式を導入しようとしたのだ。ベルトコンベアの横で無意味な労働を繰り返すのではなく、自動化と共に労働者の自律性を高めるという方式だ。ユン・ジョンミンさんの工場には「革新は上から、実践は自分から」などのスローガンが掲げられた。
問題は、当時は企業と政府、労働者が激しく対立していたというところにある。韓国労働研究院のパク・ミョンジュン先任研究委員は「労組を抑圧する当時の企業と政府の雰囲気の中で、労使対立は激しく、労働者にとって『生産性を企業と共に高める』という考えは受け入れられなかった」と説明した。
最終的には、自動化と個人別労務管理だけが残って韓国式工場が作られた。1990年の韓国の労働者10万人当たりのロボット密度は6.1で、日本(182.7)、ドイツ(30.9)に比べて非常に低かった。2021年、韓国は労働者10万人当たり1千台の産業用ロボットを持つ世界最高のロボット利用国だ。自動化が人に取って代わるという方式ばかりに集中したことで、製造業の雇用係数(生産を10億ウォン増やすのに必要な新規労働者数)は、1995年の9.77から2019年には1.88にまで低下している。製造業はロボットを扱い工程を管理する少数の高級エンジニアと、機械の補助にとどまる低熟練の生産職労働者に両極化した。その間に、架け橋役を果たし生産職労働者の目標ともなりえた準専門家である技術工(テクニシャン)のような職種は、職業分類表からも消え去った。
(3)1998~2000年、正規労働者の非正規労働者化
アジア通貨危機によって大企業、製造業、男性労働者の地位も不安定になった。韓国労働研究院が京仁(キョンイン。ここでは首都圏を表す)地域の1400社、全国の1443社の通貨危機後の構造調整の実施状況を調査したところ、1998年に整理解雇・名誉退職・早期退職を実施した企業は54.6%を占めた。以降、景気回復の局面では非正規労働者化・下請け化が加速した。正規労働者を非正規労働者で代替した企業は、1999年の7.3%から2000年には14.6%に、外注・下請けを拡大した企業は1999年の3.1%から2000年には9.3%に急増。その時期にユン・ジョンミンさんの工場に貼り出された「小社長募集公告」もまた、2000年には16.1%もの企業が実施するほど一般的だった。小社長制とは、管理職の生産労働者とその下の労働者を独立させて下請け企業として編入するものだ。
生存を脅かされた正規労働者は、各々で生きる道を探りはじめた。2001年に結成された金属労組は産業別労組として非正規職労働者問題、下請け労働者問題を網羅する社会的観点からの問題提起を試みたが、限界にぶつかった。企業に中央交渉を拒否されてもいるが、組合員の利益を最優先にした大企業労組が産業別連帯に消極的なせいでもあった。
(4)2000年代、国際分業
国際分業は、中国が世界市場に本格的に参入した2000年代に全盛を迎えた。これによって「組立型工業化」「モジュール型工業化」などと呼ばれる韓国型成長の公式が完全に定着した。労働者の手による技術が必要な素材・部品は日本やドイツなどから輸入し、それを自動化された機械と単純労働で組み立てて輸出した。低賃金を見込んだ中国への工場移転も活発だった。韓国の輸出品に素材・部品の輸入などの海外投入要素が占める比率は、1995年の27.4%から2011年には47%へと上昇。これは中継貿易国であるシンガポールと同水準で、G7より10ポイント以上高い。
国際分業の中で韓国は、大企業の設備投資と生産工程を効率化するエンジニアの能力において比較優位を占めた。各国の機械、部品、安価な人材を買い集めて再配置し、いち早く製品を発売した。例えば、現代自動車の「機敏な生産方式」は、「問題を直ちに発見し、迅速に反応する。スピードこそ競争優位だ」(「フォーチュン」、2010年)などと称賛されてもいる。
ただ、これはリスクだった。江原大学のチョン・ジュンホ教授は「独歩的な源泉技術が少ない韓国製造業は国際分業に対する統制能力が弱く、そのためグローバル化の進展が止まった瞬間に困難に突き当たる可能性があった」と語る。
(5)2023年、忌避業種
2023年、韓国の工場労働は「忌避業種」か「神の職場」となった。小規模下請け企業の労働者の最低賃金と大企業の大工場の正社員の高年俸が共存しているのだ。大工場の正社員の大半はまもなく定年を迎える。いずれの企業も生産職の熟練度を高めることを奨励していない。
パク・ミョンジュン先任研究委員は「現場の労働者の熟練は製造業の中長期的な競争力において非常に重要だ。大企業とその労働者は自動化に伴って現場の労働者の経験、勘、コミュニケーション能力などの熟練の多様な側面を開発することに事実上失敗しており、中小企業は垂直構造の中で成長が停滞しているため、労働者の熟練を考える余力がなかった」と語った。
これは単に製造業の競争力にとどまらず、韓国社会の全般的な不安と対立の背景であると指摘しうる。少数の人材に集中する生産と市場の分配は、両極化と激しい競争へとつながらざるを得ない。チョン・ジュンホ教授は「先端と人材も重要だが、一つの社会の安定性を担保する普遍的な中間層を生産過程にできるだけ多く包摂するビジョンの方が必要だ」とし、「生産においては少数による極端な効率を追求し、福祉で後から挽回するというやり方は、福祉すら『恩恵』と認識させるため、社会的対立を強める」と述べた。
※参考文献:『韓国福祉国家の起源と軌跡』(ユン・ホンシク)、『韓国の都市下層と労働者』(横田伸子)、『韓国の民主主義と資本主義』(チョン・ジュンホ他)、『韓国製造業の労働力活用構造と発展課題』(韓国労働研究院)