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「日本仏教の星、西田幾多郎と鈴木大拙、帝国主義を美化」

登録:2021-08-06 03:17 修正:2021-08-06 08:43
「仏教評論」日本仏教の実像を告発 
西田幾多郎、鈴木大拙 
20世紀の世界的仏教学者を追跡
2020東京五輪を5日後に控えた7月18日、東京晴海の五輪選手村近くの路上で、極右団体が車で拡声器示威を行っている=東京/五輪写真共同取材団//ハンギョレ新聞社

 2020東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会が聖火リレーのルートを示す地図に独島(ドクト)を日本領土のように表記し、「平和の祭典」である五輪でも帝国主義的な魔性をあらわにしているとの批判が提起されている。こうした中、仏教界の代表的な季刊誌「仏教評論」は、20世紀を代表する日本の世界的な仏教学者たちが帝国主義理論の確立を先導したと告発した。

 「仏教評論」は、先日発行した夏号のカバーストーリー特集「日本仏教の特性と実像」で、西田幾多郎(1870~1945)と鈴木大拙(1870~1966)の親帝国主義的思想とその歩みを暴く文を掲載した。同特集では、第2次世界大戦当時、日本の主流の宗教であった仏教がどのように帝国主義戦争を助け、参加したのか、具体的な資料を提示している。

西田幾多郎=資料写真//ハンギョレ新聞社

 日帝の総動員令によって朝鮮半島の仏教、カトリック、プロテスタント、儒教なども強圧的あるいは自発的に戦争物資を支援したのだから、日本国内の宗教が愛国という名の下に戦争に動員されたことに特に不思議はない。しかし、西田幾多郎と鈴木大拙の場合は異なる。出家はしていないものの、苛酷な禅修行を通じて悟りを認められ、これを理論化して西洋に伝えた同い年の2人は、西洋では20世紀を代表する仏教人を挙げる際には1、2位を争うほどの人物だ。

 西田幾多郎は日本独自の哲学を形成した代表的な思想家で、京都学派の開祖だ。鈴木大拙は19世紀後半から米国に渡り、禅仏教を西洋人に伝えた西洋仏教の大家だ。鈴木は、人類文明が危機に瀕するようになった原因は西洋の合理主義だと考え、東洋的な直観、すなわち禅思想の重要性を伝え、西欧の知識人社会に大きな影響を及ぼした。西洋人が禅を日本語読みのZENと表記したのもこのためだ。

京都学派の父である西田幾多郎が苦悩しながら歩いた「哲学の道」の始発点、京都の銀閣寺=チョ・ヒョン記者//ハンギョレ新聞社

 帝国主義が弱小国を侵略する上で、カトリックとプロテスタントの宣教師が前衛隊の役割を果たしたのに対し、仏教は「非暴力平和の宗教」として位置づけられてきたことを仏教界は自負してきた。しかし、今回の特集を通じて、仏教徒もいつでも帝国主義と暴力に動員されうることを警告したかたちだ。

 慶煕大学のホ・ウソン名誉教授は「西田幾多郎は1944年に『日本の国体はまさに大乗仏教の真の精神の再現』と主張した」とし「西田は、英国と米国に代表される西洋帝国主義に対抗するためにウィルソンの民族自決主義に反対し、東洋共栄圏の旗を高く掲げて天皇を中心に東アジア各国は団結しなければならないと書いた時、彼は帝国主義者に類似する者になった」と主張した。

西田幾多郎=資料写真//ハンギョレ新聞社
日本で発行された西田幾多郎の記念切手//ハンギョレ新聞社

 西江大学のチェ・ヨンウン研究教授は「西田は1943年5月、日本の軍部から大東亜共栄圏の指針についての文章を求められ『世界新秩序の原理』を執筆した」とし「当時の東条内閣はこれを受け入れ、中国、満州、フィリピン、タイ、ミャンマーなどの代表が参加した『大東亜議会』で採択された『大東亜共同宣言』にかなりの部分が反映された」と指摘した。チェ教授は「大東亜共栄圏の理論そのものは西田によって最初に確立されたわけではないが、近代世界の歴史を西洋帝国主義の歴史だと批判した彼が、被支配国の立場を少しも考慮せず自国の帝国主義的野心に便乗したことは、彼の学問的偉業の光を減殺する」と付け加えた。

 チェ教授は、西田とともに京都学派の第一世代を代表する人物である田辺元(1885~1962)が西田とは異なり、懺悔の良心宣言をしたことも紹介した。田辺は1946年の著書『懺悔道としての哲学』で、戦争中に国の失策に対していかなる反対意見も示さなかった自分の態度を悔い、哲学者としての無力さに苦悩する中で、突然訪れた懺悔による新たな意識の転換を告白したというのだ。

鈴木大拙=資料写真//ハンギョレ新聞社

 宗教学者で報勲教育研究院長でもあるイ・チャンス氏は、禅を「戦闘精神」と結びつけた鈴木大拙を批判した。鈴木は著書で、「禅の修行は単純・直裁・自恃・克己的であり、この戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致する。戦闘者はつねに戦うべき目前の対象にひたすら心を向けていればよいので、振返ったり傍見してはならぬ。敵を粉砕するためにまっすぐに進むということが彼にとっては必要な一切である」と書いた。イ氏は「日帝は1937年に日中戦争を起こした直後の1938年、日本による大陸侵略の真っ只中で鈴木はこの文章を書いた」と指摘した。イ氏はまた「太平洋戦争の敗戦後、鈴木は日本が事態を誤って把握したために大きな混乱に陥ったとの問題意識を持ち、昭和天皇夫妻に華厳思想を教えつつ、他の事物が傷つけられれば自分も傷つくと語った」とし「しかし、その傷の中に朝鮮人の傷と罪のない死が含まれているのかは疑わしい」と主張した。

1946年の東京裁判での東條英機(左端)ら日本軍の戦犯たち。多くの部下と民間人を死に追いやった彼らの多くが、何の責任も負わず再び出世の道を歩んだ=資料写真//ハンギョレ新聞社

 イ氏は「西田と鈴木は、悟れていない人による歴史的現実を、悟りの論理によっていとも簡単に肯定した」とし「だから戦争の犠牲者、修羅場、偽りと暴力のような構造的暴力と民衆の苦しみを仮想世界に対するように見過ごし、ついに侵略も戦争も殺しも無化し、結局は天皇制と軍国主義も肯定した」と批判した。

チョ・ヒョン宗教専門記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/well/news/1006477.html韓国語原文入力:2021-08-04 19:08
訳D.K

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