本文に移動

華やかだった「ギンギラギンに」の時代の日本は終わった

登録:2021-07-28 11:29 修正:2021-08-01 08:48
[ハンギョレS]キム・ドフンの見慣れない人 
近藤真彦 
 
80~90年代、韓国が憧れた日本 
バブルはじけ、韓日の逆転現象 
若い世代はすでに「追い越しの時代」を生きている 
羨望でなはなく、パートナーとして互いを捉えるべき 
ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 1980年代の韓国の小学生たちは集まると「ギンギラギンに」を歌っていた。その時代、私は慶尚南道馬山(マサン)に住んでいた。釜山(プサン)もそうだが、日帝強占期(日本による植民地時代)に港町として成長した馬山は、日本文化が比較的早く伝わる都市だった。カラオケも市内のあちこちにできた。合法的に上陸したわけではなかった。1998年、金大中(キム・デジュン)政権が日本文化開放政策を掲げるまで、日本から来るすべての文化と製品は違法だった。だが、人間というのは、禁止されるとかえってやってみたくなる生き物だ。80年代の小学生の多くは行商人が持ち込んだ象さん弁当箱を持ち歩いていた。「象印マホービン(魔法瓶)」が生産したこの保温弁当箱は韓国で象さん弁当箱と呼ばれていた。私も毎日象さん弁当箱を持って登校した。昼休みにお弁当箱を開けるたびに感心したものだ。熱いスープから湯気が立っていた。象さん弁当箱はいわば先進国の遺物のようなものだった。

 当時、韓国は日本に到底追いつけない辺境の国だった。1980年の韓国の国内総生産(GDP)は、日本の17分の1ほどに過ぎなかった。韓国の1人当りの国民所得は1686ドルだった。日本は1万ドルに近かった。日本は先進国で、韓国は貧困から抜け出し始めた発展途上国だった。文化も当然違っていた。違法なルートで入ってきた日本文化は、小学生から見ても信じられないほど先進的だった。貿易船の船長として働いていた父は、たびたび日本の雑誌を持ち帰った。私は日本語が全く分からなかったが、すぐにその雑誌の虜になった。つややかで鮮明なカラーページは、韓国の雑誌とは比べ物にならなかった。私は胸が苦しくなるほど日本文化に憧れていた。

大きな音と共にバブルがはじけた日本

 そして「ギンギラギンに」が登場した。一体どこから流行り始めたのかは分からない。ある日突然、子どもたちが日本語の歌を勝手に歌い始めた。間違えずに歌える部分は「ギンギラギンに」だけだった。私はそれが近藤真彦という日本の歌手が1981年にリリースしたアルバム「ギンギラギンにさりげなく」(一枚目の写真)だということを知った。「華やかだが、何気ないように」という意味だった。違法カセットテープに録音されていたこのポップなダンス曲はかなり中毒性があり、ずっと口ずさんでも飽きなかった。当時、韓国歌謡界にはダンス曲と言えるようなものがほとんどなかった。ナミの「ピングルピングル(くるくる)」が1984年に出てから、私は韓国にもダンス曲があることに気づいた。80年代の韓国の小学生にとって「ギンギラギンに」がどれほど巨大なカルチャーショックだったか、想像してみてほしい。

 近藤真彦は日本バブル経済の象徴のようなアイドルだ。韓国のアイドル事務所がモデルにしていた日本のアイドル事務所「ジャニーズ」が1979年にデビューさせた彼は「ギンギラギンにさりげなく」をヒットさせ、国民的アイドルになった。日本の男性たちは彼のヘアースタイルを真似した。ナイキのスニーカーのようなアイテムを流行らせたのも彼だった。ジャニーズは1962年に創立した芸能事務所だが、現代的アイドル産業の始まりは80年代だった。そしてその始まりの時点で、近藤真彦に大きな借りがある。当時、韓国にはアイドルと呼べる存在がいなかった。ヘウ二を韓国アイドルの始まりという人もいるが、ヘウ二の歌は依然として「大人たちの歌謡」の枠にとどまっていた。

 80年代の間、近藤真彦は快進撃を続けた。1987年には「日本レコード大賞」で大賞を受賞した。しかし、作られたアイドルがそうであるように、彼の全盛期はそれほど長くはなかった。90年代が到来すると、新しいアイドルたちが次々と登場した。韓国にもよく知られるグループSMAPの木村拓哉が全盛期を迎えた90年代になると、近藤真彦はやや古い存在になった。「ギンギラギンにさりげなく、そいつが俺のやり方、ギンギラギンにさりげなく、さりげなく生きるだけさ」と、自信たっぷりに歌っていた時代は終わりを迎えていた。東京の不動産を売れば米国も買えるという時代が幕を下ろそうとしていた。1990年代が過ぎ、バブルははじけた。ものすごい音を立てて消え去った。失われた10年がまもなく始まるところだった。

ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 1994年に大学生になった私は日本のドラマをダウンロードして繰り返し見た。現在の時点では違法だが、「ナップスター(Napster)」というファイル共有サービスが世界のすべての歌を「合法的」かつ無料でシェアしていた時代だということを念頭に置かなければならない。当時日本のトップスターだった木村拓哉主演の『ロング・バケーション』(1996)と『ラブ・ジェネレーション』(1997)は、密かに日本文化に憧れていた大学生にとってバイブルのようなものだった。韓国にもトレンディドラマが登場し始めたが、日本のドラマに比べると、依然としてどこかダサかった。最近「ワッチャ(WATCHA)」というオンライン動画サービス(OTT)に2つの作品がサービスされているから、韓国市民にはぜひ見ることをお勧めしたい。バブルがはじける前には世界で最もトレンディな都市だった東京の輝く時代が、小惑星の衝突を予測できずに死んだ恐竜のように、剥製となって映し出される。

 私はこの文を、深夜のニュースチャンネルを見ながら書いている。五輪関連ニュースを見ながら、一時は地球で最も裕福で秩序があり、洗練されていた国が傾く音を聴いている。パンデミックという統制できない要因もある。それでも、東京はこの巨大な国際的イベントを行う準備ができているようには見えない。日本は内心あわてているだろう。計画通りなら、五輪は日本の再生を象徴するイベントになるはずだった。国家礼賛パーティーになるはずだった。今、国家礼賛はむしろ韓国のものだ。特に菅義偉首相が文在寅(ムン・ジェイン)大統領の訪日をめぐり、様々な思惑をめぐらせ、曖昧な態度を示したことからも、ある種の不快感と戸惑いが見え隠れした。日本を真似するのに必死だった隣国の田舎者が同等な位置にのし上がったことを、到底受け入れられない様子なのかもしれない。

「追い越しの時代」が到来した韓日関係

 元同僚が共著者として参加した『追い越しの時代』を読んだ。私はタイトルを耳にした瞬間、思わず膝を打った。「追い越し」という言葉を誰が選んだかは分からないが、まさにぴったりの言葉だと認めざるを得なかった。韓国は「追い越しの時代」に突入した。国連貿易開発会議(UNCTAD)は、韓国の地位を発展途上国から先進国に変更した。同機関の加盟国が先進国に地位が変わったのは、1964年の設立以来初めてだ。韓国の1人当たりの購買力が日本を上回ったというニュースもある。40代の私にとって日本はどうしても乗り越えなければならない存在だった。一方、韓国の10代と20代にとって日本は、生活レベルは韓国とあまり変わらないが、街が少し強迫的で清潔な国に過ぎない。誰も日本のドラマを見て東京にあこがれを抱いたりしない。中年以上の韓国人は依然として日本に対して妙な劣等感を持っているが、新しい世代にはもう劣等感はない。彼らはすでに追い越しの時代を生きている。

ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 私は今もたまに近藤真彦が「ギンギラギンにさりげなく」を歌うシーンをユーチューブで見る。ニキビ顔を卒業したばかりの男が、華やかな舞台でダンサーたちと踊りながら熱唱する姿は、今や「ギンギラギンにさりげなく」黄金期を楽しんだ一時代の過ぎ去った象徴のように見える。私は続いて、防弾少年団(BTS)のミュージックビデオを見る。黄金期が始まった新しい時代の象徴だ。もしかすると、韓国と日本はやっと本音で語り合い、互いを同等なパートナーとして見られる時期を迎えたのかも知れない。日本に憧れた20世紀の少年たちの時代は過ぎ去った。21世紀の、友人の時代の幕が上がっている。

ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社
キム・ドフン(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1004962.html韓国語原文入力:2021-07-25 23:02
訳H.J

関連記事