1966年、韓国軍猛虎部隊が村人1004人を虐殺
母親と妹が犠牲になったことを泣きながら証言
2015年の来韓時、ベトナム参戦軍人のデモを見て
「戦争も激しいが、平和も激しい」
「弱々しい姿は見せない」と誓う
過去20年間、多くの韓国人に平和を伝えてきたベトナム戦争のビンアン村虐殺の生存者、グエン・タン・ランンさんが7日午前7時40分、息を引き取りました。享年69歳。
21年前の夏、あなたに初めて会いました。あの日、猛虎部隊の軍人たちが渡ったというコン川に沿って歩き、今はもうなくなった木のつり橋を渡り、また膝まで伸びた草むらをかき分け細道に沿ってしばらく歩き、あなたのお母さんと妹のお墓に沿って回ると、こざっぱりとしたあなたの家の庭が見えました。
あなたは本当に涙もろい人でした。虐殺から30年たって初めて村に現われた韓国人を見に集まってきた村人たちの拳と足蹴りを防ぐために、私を抱いて地面に伏したあなたは、私の背中がびっしょり濡れるほど泣きました。
「ちぎれた片方のあの木の枝に引っかかって、片方の足は庭に転がっていた。上の子が7歳、下の子はたったの3歳だった。バラバラになった幼い子どもたちの肉と骨のかけらを、この手でかき集めて埋めたんだ。その恨みを晴らすには、お前を八つ裂きにして殺しても終わらん!」
韓国軍に2人の子どもを殺されたグエン・バン・ジャさんの激しい叫び声に「ああ、私は分かっているさ。その気持ちは私がわかっているじゃないか」と、より大きな泣き声で応えながら、あなたは私の代わりに村の人々から袋叩きに遭いました。
村の党書記長だったあなたが設けた和解の酒席。「ポン(妹の名前)、ああ、母さん!そちらは安らかですか」。盃にぽたぽた落ちたあなたの涙が星になって刺さるように目にしみた、あの日の夜空を私は一生忘れることができません。
あなたは虐殺を「音」で記憶している、と言っていました。砲撃音、銃声、ザッザッという軍靴の音に続き、手榴弾で下半身がふっ飛んだ母が叫んだ悲鳴、頭から脳水が流れ出た妹が吐き出したかすかなうめき声…。まず妹が、続いて母が、むしろに巻かれ積まれていき、だれもいない部屋で鳴り響いた自分の泣き声。
初めて会った時から数十回、いや数百回繰り返し15歳の時に目撃した虐殺を証言しながらも、母が死ぬ場面を語るときはいつもボロボロと涙を流すあなたを、私は「泣き虫おじさん」と呼んだりしました。2015年4月に韓国を訪れたある日、「泣き虫」のあなたが断固として涙を止めました。あなたが泊まったホテルを中心に、安国洞交差点から公平洞交差点まで、軍服を着た韓国の参戦軍人が通りを埋め尽くしてデモをしていた日でした。警察の身辺保護を受けながら、仁寺洞の車のない通りを逆走行して、建物の後ろの外壁の鉄製のはしごをよじ登り、窓から辛うじてホテルの部屋に入った瞬間、緊張した様子がありありと見えたあなたはタバコを求めました。
タバコを一本抜いてくわえながらあなたが窓を開けると、「ベトコン・グエン・タン・ラン」という文句と共に、あなたの顔が大きく載った横断幕が広げられ、拡声器から耳を裂くような軍歌が聞こえてきました。その光景をじっと見つめながらあなたが言いました。
「戦争も激しいが、平和も激しいものだな!」
ああ、あなたはあの緊迫した瞬間を「衝突」と見るのではなく、「平和」へと進む過程だと理解していたのです。あの日あなたは二度と泣かないと誓いました。「平和の戦士が弱々しい姿を見せてはだめじゃないか」
今年9月から呼吸困難の症状が起き、先日の検診の結果、心臓に異常があることを確認し手術を考えていた矢先に、突然この世を去ったあなた。一昨日、テレビ電話で「がんばって」という応援で少し楽になった様子で、かすかな笑みも浮かべながら親指で立てて応えてくれたあなたを見たばかりだったから、信じられませんでした。もしかしたら、あなたの心臓が壊れ始めたのは、2015年のあの日からではなかったでしょうか。もう泣くのを堪えるようになったあなたは、虐殺を話すたびに、母のくだりに至っては息を整えられず胸をぎゅっとつかんでしばらく止まったり、しまいにはそのくだりを飛ばしたりしました。
「ビンアン村虐殺の生存者」と呼ばれたあなた。もともとビンアン(Binh An)は「平安」という意味を持つ村だったそうですね。1966年、韓国軍の猛虎部隊によって、この村で1004人が残酷な虐殺に遭う事件を経た後、住民たちはもうその名前を使うことができなかったと言いました。虐殺の廃墟の上に村を再建した人々は「西側の栄光」という意味の「タイビン(Tay Vinh)」に名前を変えます。悲しみがどうして栄光になりうるのかと、あなたはその名前も受け入れられないと言いました。あなたが旅立ったその場所が、昔のビンアン村であればと思います。戦争を経験したことも、経験することもないビンアン町で、あなたがあれほど恋しがったお母さんと妹に会い、その名のように安らかであってほしい。
虐殺、その後あなたが生きてきた54年のその苦しく孤独な歳月を無駄にしない義務は、いまや私たちにあります。被害者として留まることを拒否し、あの日の真実を明らかにするために「平和の戦士」として戦ってきたあなたが果たせなかった夢は、私たちが闘って成し遂げていきます。どうか安らかな世界に行かれますように。
ク・スジョン|韓ベ平和財団常任理事