「アイゴ、40年たって何を話せというんですか。息子の看病ばかりして暮らしていますよ」
4日、Pさん(89・光州市北区角化洞(プック・カクファドン))は近況を聞くとため息をついた。「5・18と聞くと嫌気が差す。元気だった夫は死んでしまった。子どもは殴られておかしくなってしまった。家もなくなった」
長男のAさん(57、光州市北区)は勉強ができた。4人の娘の後に生まれた息子だったので、格別に大事に育てた。1980年5月21日、朝鮮大学付属高校2年生だったAさんは、修学旅行から帰ってきて驚いた。K旅客管理部長を務めていた父親が、軍人に殴られて倒れたという電話連絡を受けたのだ。Aさんは急いで父親の勤務地へ向かって走っていた途中、全南大学正門前で空輸部隊員に捕まった。銃の台尻で頭を殴られて倒れた後、目を覚ますと他人の家にいた。その後、時々うわごとを口にしていたAさんは、次第に症状が悪化した。同年8月31日、精神分裂の診断を受けて学校を休学した。「ふんばって病院に行かないという息子を、警察を呼んで入院させた。そうやって生きてきた」
Pさんの夫(1928年生まれ)も生涯5・18の後遺症を患っていた。5月21日午後1時頃、K旅客車庫に空輸部隊の大尉1人と軍人が乱入した。軍人らは2階の事務室に入ってきて、夫と同僚6人をこん棒と小銃の台尻で無差別に殴打した。気を失った夫は病院に運ばれて治療を受けたが、生涯苦痛に苦しんだ。2008年に死亡する前の5年間は、“植物人間”のように生きた。もはや長男の面倒を見るのは全てPさんの役目になった。幸い、まだ息子は母親だけは見分けられる。「2年後には息子が還暦を迎えるんです。一番の心配は、息子を置いて私が先に逝ってしまうこと、それだけです」
精神疾患を患う5・18の生存者は、一人で苦しみに耐えなければならないことも多い。Kさん(1958年生まれ)は1980年5月20日早朝、前日に姉の家に泊まって家に帰る途中、武装した空輸部隊員に捕まり、脅迫を受け釈放された後、異常症状を見せた。1982年7月、精神病院に初めて入院した後、療養所などを転々としたKさんは、自宅にしばらく滞在していた1986年、些細な問題で口論の末に、父親にラジオを投げつけて死亡させた。
Kさんは20年間国立羅州病院で治療を受けている。彼女の兄と義理の妹も悲運の事故で死んだ後、唯一の頼り所だった母親もこの世を去った。
5・18遺族会の集計によると、5・18関連の精神疾患の生存者は65人、死者は61人。戒厳軍に殴られたり性的暴行を受け、精神的なショックを受けた人たちだ。5・18遺族会のチョン・スマン元会長は「精神疾患を患う生存者やその家族にとって、5・18はいまも現在進行形だ。面倒を見る家族がいない5・18精神疾患生存者の対策が必要だ」と話した。
5・18精神疾患生存者のうち相当数は自殺を選ぶ。5・18有功者のキム・ヨンホさん(当時25歳)は、1987年5月27日、走る列車に飛び込んで命を絶った。