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父母とともに連れて行かれた処刑場、自分だけが生き残った

登録:2019-01-24 23:05 修正:2019-02-03 12:02
済州4・3 椿に尋ねる 2部(15) 
 
「逃避者家族」に分類され銃殺直前に父が警察に哀願 
「先祖の霊に一杯の水を供える子孫一人だけでも助けて欲しい」 
兄は3.1節記念大会の後、逃避生活に入り行方不明 
両親が処刑された日、家に残った弟妹も連行され銃殺

 18日午前に訪れた済州市(チェジュシ)旧左邑(クジャウプ)下道里(ハドリ)の済州海女博物館横のヨンドゥマン山は、松や草木が生い茂っていた。一方には済州オルレ21コースに至るという標識が立っていた。一緒にここを訪れたオ・スソン氏(87)の表情は複雑で苦しそうだった。山に出る小径の脇にオ氏が立ち、手で茂みを指した。「ここです。細花(セファ)支署の収容所に収容された父と母、妹と弟が同じ日に犠牲になったところです」

済州4・3の時に家族全員を失ったオ・スソン氏が、1949年1月両親と住民たちが銃殺された済州市旧左邑下道里のヨンドゥマン山の前に立った=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 下道里側から細花里側に行くには、ヨンドゥマン山を越えなければならない。細花里と上道里(サンドリ)、下道里が接する地点にあるヨンドゥマン山は、日帝強制占領期間の1932年1月、この地域の海女が日本人の収奪に対抗してデモを行うため集まった場所だ。山の前には「済州海女抗日運動記念塔」と海女たちの抗争を主導した海女プ・チュンファ、キム・オンニョン、プ・ドンニャンの3人の独立運動家の胸像が立っている。

 茂みを指すオ氏の声にこみ上げる思いが詰まっていた。オ氏は「幼かった時には、ここは大きな山だった。今のように雑木や草木の茂みもなく、周辺は砂浜だった」と話した。日帝強制占領期間の女性抗日運動として評価される海女抗争の出発点になった場所が、済州4・3時期には虐殺の現場になった。“その日の状況”をオ氏は数日前のことのように生々しく回想した。

済州市旧左邑下道里のオ・スソン氏が、4・3時に家族全員が犠牲になった事情を泣きながら話している=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

「子孫一人だけでも助けて欲しい」…両親は世を去った

 1949年2月10日午前10時頃、旧左面(クジャミョン、現在の済州市旧左邑)の細花支署の警官が、支署の向い側にあった収容所に収容された住民に「出て来い」と言った。警察は、住民40人余りを支署の前に立たせ、彼らを近隣の下道里のヨンドゥマン山に連れて行った。警察官5~6人が彼らを包囲した。

 前日、冬の雨が激しく降り道はぬかるんでいて、冷気が全身を包んだ。ヨンドゥマン山は細花支署から1キロほどしか離れてないが、千里の道のように長く感じられた。連行される住民たちは、この地域の下道里・終達里(チョンダルリ)・細花里の住民たちだった。当時17歳だったオ氏は、父(オ・トウォン・当時52)母(コ・ウルセン・当時45)と一緒に連行された。警察はヨンドゥマン山に着くと、連行してきた住民たちを一列に並ばせた。それが処刑の執行される瞬間だった。父は警官に「先祖の霊に一杯の水を供える子孫一人だけ助けて欲しい」と哀願した。母も「どうか息子だけでも助けて」と絶叫した。

 収容所に収容されたオ氏は、支署で水汲みの手伝いをするなど、給仕生活をしていたので警官の顔を知っていた。両親の切なる哀願を聞くと、オ氏の顔を知っていた警官がオ氏を列から外し、支署の方に行かせた。オ氏が150メートルほど歩いていくと、すぐ背後から「タンッタンッタンッ」という銃声が聞こえた。この場所で40人余りが集団虐殺された。この日虐殺された住民たちは、家族の中に一人でも逃避した人のいる、いわゆる「逃避者家族」に分類された人々だった。

オ・スソン氏の右手の中指には、支署に収監される前に電気拷問を受けた傷跡が残っている=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 「何も考えられませんでした。心臓が止まると思いました。数日間ご飯も食べられないほどでした。私の目の前で父と母を含めて多くの人が亡くなったからです。大人だけでなく子どもたち、さらには赤ん坊まで殺されました」。オ氏は両親を撃った警官に手を引っ張られ、支署で再び給仕生活をした。

「どうか助けてください」と祈った12歳の妹と9歳の弟

 オ氏は家に残して来た妹(オ・ヨンジャ・当時12)と弟(オ・ホンニム・当時8)は親戚のおばあさんが見てくれるものと思っていた。父と母が犠牲になった2日後、細花里で肥料配給所を営む叔父が妹と弟を連れて行くため下道里の自宅を訪れた。しかし弟も妹もいなかった。

 両親と住民たちを銃殺した警察は、その日の午後下道里に再び押しかけて来て、収監されなかった「逃避者家族」を再び捕まえて行った。幼い2人の弟妹も一緒に連行された。弟と妹は警官にすがるように「どうか助けて下さい」と泣いて哀願したが、銃口は火を噴いた。その時、支署で給仕の仕事をしていたオ氏は、叔父を通じて知らせを聞いた。「その時、多くの住民が処刑の場面を目撃しました。その方の話を聞いて言葉が出ませんでした。幼い弟妹が助けて下さいと哀願する姿はとても目を開けていられない状況だったそうです。その話を聞く私の心情がおわかりいただけますか」

 両親と弟妹の遺体収拾には思いが至らなかった。オ氏は「親戚のいる人々は皆収拾して行ったが、私には考える余裕もなかった上に、一人で収拾することもできなかった。叔父が両親と弟妹の遺体の上に土を覆って、表示だけしておき、5カ月ほど過ぎてから畑に埋めた」と話した。

オ・スソン氏が細花支署の収容所に収容された時、人々であふれかえった中で座った時の姿勢を説明している=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

逃避した兄は行方不明…運航できないよう船には穴が開けられた

 オ氏が「逃避者家族」になったのは3歳年上の兄のためだ。1947年3月1日、済州北国民学校(小学校)で開かれた3.1節記念大会直後に、参加者の街頭デモを見物していた小学生から乳飲み子を抱いた20代の婦女に至るまで住民6人が警察の発砲で亡くなった。その事件の後、警察は済州道全域に大々的な検挙令を下した。朝天万歳丘で開かれた3.1節記念大会に参加した兄(オ・チャンソン・当時20)もその時、細花支署の警察に捕まった。警察は兄に「責任者は誰だ。どんなことをしたのか」と詰問し、あらゆる拷問を加えた。オ氏は「警察が棍棒で兄を死ぬ一歩手前まで殴った。歯は折れ身動きできないほどだった」と話した。

 支署に20日あまり収容された末に解放された兄は、家にいれば再び警察に捕まると思い、野原や畑、家の納屋などに隠れて過ごした。4・3が本格化し討伐隊の討伐作戦が続くと、兄は中山間地域にあるタランシュィ(月郎峰)小径近くの小さな洞窟に避難し身を守るなど、避身生活を続けていた。

オ・スソン氏=済州/ホ・ホジュン記者/ハンギョレ新聞社

 父は焦土化が始まった1948年10月以前に兄を見つけ、他の地方に送ろうとした。日帝強制占領期間に動力船を運航できる免許証を取得していた父は、30代で船員を募集して咸鏡道の清津(チョンジン)近海まで行き、イワシ漁をしたりもしたが、解放後に故郷に戻ってきてからは帆船に乗っていた。「その船で陸地まで通っていました。時局が悪化し始めると、父は何としても兄を見つけ、陸地に送り出そうとしましたが、警察が下道里の入り江に船を集めさせ、運航できないよう全部穴を開けてしまいました。逃走すると思ってそうしたのです」。

 支署で給仕生活をしていたオ氏は、兄と一緒に過ごしていたが帰順した兄の小学校同窓生から「兄が厳冬の中山間地域で凍傷に罹り、服で足を縛って隠れていたが、1949年3月28日に飢えで死んだ」という消息を聞いた。だが、警察の許可なしには行き来もできない時期で、兄の遺体を収容することはできなかった。済州4・3平和公園にある兄の碑石には「1949年3月28日以後、済州地域で行方不明」と記されている。

済州市旧左邑下道里のヨンドゥマン山に立つ「海女抗争」の主役3人(プ・チュンファ、キム・オンニョン、プ・ドンニャン)の独立運動家の胸像の後方の松林が、1949年1月オ・スソン氏の父母と住民が処刑された場所だ。当時は松林はなかった=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

支署で受けた拷問

 「逃避者家族」に分類され、父と母が細花支署に逮捕されたのは1948年10月の末頃だ。最初は下道里の公会堂に行った。その日公会堂に連れて行かれた住民たちは、再び支署に連れて行かれた。支署に行った住民たちは、まず過酷な拷問に遭った。オ氏は父と母が連行された半月後に支署に連行された。オ氏は支署に着くやいなや電気拷問を受けた。兄がどこに逃避したか言えということだった。次は指に棒きれを挟み強くひねったり、材木を太ももとふくらはぎの間に挟み、ひざまずかせて座らせ、上から踏みにじるなど様々な拷問を加えた。

 「兄の行方も知らないのに、どうして返事ができますか。返事ができないから、あらゆる拷問で人を殺しました。私だけがそんな目に遭ったわけではなく、支署に連行された人々の大部分が最初はそんな風に拷問されました。西北青年団出身の警官が多く、そういう人がそんな拷問をしました」。右手の中指には今も電気拷問を受けた跡がある。

 拷問を受けた後には、細花支署の向い側の収容所に監禁された。オ氏と両親は、その時から処刑されるまで2カ月以上そこに監禁された。名前は収容所であっても、倉庫として使われた建物で、7~8坪足らずだった。オ氏はそこに収容された人は46人だったと記憶していた。

 「狭い部屋に夜も昼も人々をむやみに押し込むのでどうしようもなかった。おたまじゃくしのように膝を抱えて座っているしかありませんでした。あまりに多くの人を監禁したので、ぎっしりと座っているしかなかったのです」。

済州市奉蓋洞の済州4・3平和公園内には、行方不明になったオ・スソン氏の兄の碑石がある=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

今でもヨンドゥマン山を通る度に心が痛む

 家族を殺した警察の支署で給仕生活をしたオ氏は、叔父の細花里配給所で2年余り暮らしながら時々故郷の家に立ち寄った。空家に帰る道は、空を歩くようだった。

 父母と兄、弟妹2人の法事は、陰暦1月12日に行う。命日が分からない兄の法事も一緒に行う。「叔母がお供えを整えりと、それを家に持ってきてそのまま並べました。法事の方法も知らなくて、ただナンプンギ(真ちゅう製の容器の済州方言)にご飯をよそい、箸とスプーンを挿して杯を上げ法事を執り行い、結婚後にようやく正式に法事を執り行うようになりました」。

 天涯孤児になったオ氏は「成長してからも周囲からの圧迫と悲哀の日々は続いた。4・3の話が出ただけで、胸が締め付けられた。ヨンドゥマン山を通るたびに、当時の記憶が思い出され見ないフリをしたくてもやはり頭を下げることになる。ヨンドゥマン山を見ただけで心が痛む」と涙を見せた。

 4・3犠牲者にも「5・18に準ずる補償がなされなければならない」と考えるオ氏は、4・3遺族会を組織する時に発起人として参加し、積極的に活動してきた。毎年4月3日には息子たちと嫁を連れて済州4・3平和公園で開かれる追悼式に参加する。<終わり>

<連載後記>

 1月20日、済州市奉蓋洞の済州4・3平和公園内の行方不明者の石碑を訪れた。行方不明者の石碑には、17日のいわゆる「4・3受刑人」再審裁判で事実上の無罪判決を受け取った彼らのように、陸地の刑務所に行きついに帰ってこられなかったり、済州で行方不明になった人々まで含め計3896基の碑石が立っている。碑石の間を歩いてみると「カン・○○の子」のように彫られた碑石が目につく。生まれて間もなく行方不明になった人々の碑石だ。そこから出て慰霊祭壇を通って降りてくれば、円形に並んだ刻名碑がある。刻名碑に彫られた1万5千余人の名前が、済州4.3の厳重さを感じさせる。

昨年4月の第70周年4・3追悼式の時、刻名碑の前で簡易な法事を済ませた際の様子=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 昨年3月、済州4・ 3の70周年企画として始めた「椿に尋ねる」連載を、年が変わった今終える。1部5回を新聞紙上(2018年3月20~4月3日)に、2部15回をオンライン(2018年9月23~2019年1月21日)に載せ、計20回連載した。

 済州島全域はもちろん、ソウルと日本で“4・3”を抱いて暮らしているおじいさん、おばあさん、叔父たちに会った。自宅で、喫茶店で、犠牲の場所で、さらに異国でも、彼らは自分たちの内心を明かし涙まじりに語ってくれ、共に目がしらを熱くした。会った人のほとんどが「私が文章を書くならば、小説一冊は書ける」というほど、切なる事情を抱いている。彼らに会って、4・3は70年前の過去のことではなく、現在彼らの意識の中に位置しているという事実を知った。

済州4・3平和公園内の行方不明者の碑石=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 解決すべき課題も多い。済州4・3の犠牲者と遺族に対する賠償は、先の大統領選挙に出てきた候補者たちの公約だった。国会に係留中の済州4・3特別法改正案には、軍事裁判の無効化と犠牲者賠償問題が含まれているが、改正案の処理はまだ先が長い。軍・警戦死者、または右翼団体の犠牲者は礼遇を受けている。刻名碑には“武装隊”活動をしたという理由で犠牲者から除かれ名前が削除された人々もいる。和解と共生を言うならば、少なくとも彼らの名前を刻めるほどの包容力を持たなければならない。

 歌手アン・チファン氏が昨年発表した4・3の歌「4月つばき」にはこのような一節がある。「このことを私は知りません。その死を私は知りません。その悲しみを私は知れません」。連載期間中、惜しみなく資料提供と助言を下さった済州4・3平和財団調査研究室と済州4・3研究所に感謝申し上げる。

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/879333.html韓国語原文入力:2019-01-21 15:34
訳J.S

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