北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長が10日午後2時35分(韓国時間3時35分)、シンガポールのチャンギ空港に姿を現すまで、平壌(ピョンヤン)とシンガポールを結ぶ空路ではスパイ映画を彷彿とさせる輸送作戦が展開された。12日のドナルド・トランプ米大統領との「世紀の談判」にふさわしい“劇的な旅程”だった。1965年に金日成(キム・イルソン)主席がインドネシアのバンドン会議10周年記念行事に出席して以来、53年ぶりに行われた北朝鮮の最高指導者の“遠征”は、出発から激しい外交戦を予告した。
同日、平壌からは3台の航空機が順に滑走路を離れた。高麗航空機が最初に離陸し、その後、中国国際航空のボーイング747機と金委員長の専用機「オオタカ1号」が1時間の間隔で空に向けて飛び立った。これらの航空機がすべてシンガポール航路を飛行していることが確認され、金委員長がどの便に搭乗したかをめぐり、さまざまな推測が飛び交った。
最も先に正体が確認されたのは、最初に平壌を出発した航空機だった。午後1時30分にシンガポールのチャンギ空港に到着した同機は、高麗航空の輸送機(イリューシン-76)であることが分かった。金委員長が先月7~8日、中国の習近平主席と二度目の首脳会談をするため、中国遼寧省大連を訪問した際、専用車を運んだ輸送機だった。今回もトランプ大統領と談判に乗り出す金委員長の専用車と各種物品を運送したものとみられる。
さらに、2時35分に金委員長が乗った航空機がチャンギ空港に降り立った。平壌から二番目に離陸した中国国際航空のボーイング747機だった。金委員長が専用機の「オオタカ1号」に搭乗していないことが確認された瞬間だった。旧ソ連時代に製作された「イリューシン-62M」を改造した「オオタカ1号」は、飛行距離が1万キロに達しており、4700キロメートルの距離であるシンガポールまで給油せず飛行できるが、老朽化と長距離運航の経験が少ないことから、安全を考慮した選択とみられる。
中国国際航空のボーイング74機は、この日空で行われた“スパイ映画”の主人公だった。北京を発ち、平壌を経て、シンガポールに向かっている間、便名と行き先を変え、煙幕作戦を行った。午前4時18分(現地時間)、北京を出発して平壌入りした同飛行機は、北京に戻る途中、便名をCA122からCA61に変え、目的地もシンガポールに変更した。以降、南下して機首を西に向け、耳目を集めた。
同機に金委員長が搭乗したかどうかは、すぐには確認されなかった。ただ、予想しなかった大手航空機がシンガポールの航路に投入されたことから、中国が金委員長のために特別便を提供したか、貸したものと予想された。中国国際航空の平壌-北京往復便は月水金の週3回運航される。同機が中国高官級が利用する専用機の可能性が高いことも、このような推測に信ぴょう性を持たせた。同機は5月中旬、エチオピアやモザンビーク、ナミビアなどの空港に降り立った。中国共産党序列3位の栗戦書全国人民代表大会常務委員長のアフリカ歴訪の日程と重なる。
金委員長が中国国際航空のボーイング747機に乗ってシンガポールに向かっている間に、中国はものものしい護衛に出たという。中国が朝米首脳会談に出席する金委員長の安全のため、戦闘機編隊を動員し、密着警護戦を繰り広げたものと推測される。北朝鮮の核交渉過程を見守ってきたある外交官は「中国が金委員長に最大限の便宜を提供することで、友好関係を誇示しようしたのだろう」と話した。
平壌を三番目に離れた「オオタカ1号」に金委員長が乗っているだろうという予想もあった。「オオタカ1号」はP-885という登録記号をつけてシンガポールの方へ飛行した。昼12時には、中国河南省の上空を通過し、午後にはカンボジア海域に接近するのが確認された。最後に午後3時45分にチャンギ空港に到着した同機からは、金委員長の妹の金与正(キム・ヨジョン)労働党第1副部長が降り立ったと、シンガポール現地メディアが伝えた。金委員長が万一の場合を備え、中国飛行機で移動したものの、金副部長の旅程は「オオタカ1号」の運航能力を立証したと言える。
三機の航空機がシンガポール航路に現れ、激しく展開された空路の輸送作戦は、午後2時35分に金委員長が中国国際航空のボーイング747機から降り立ったことで一段落した。ある外交官は「金委員長のシンガポール入り自体が世紀的事件であることを示すもの」だと話した。人民服を着て眼鏡をかけた金委員長は、飛行機から降りた後、明るい笑顔でくシンガポールのビビアン・バラクリシュナン外相と握手した。
金委員長が会談に向けて平壌から4700キロメートル離れたシンガポールまで行ったこと自体が、大胆な型破りと言える。シンガポールが中立地帯を標榜しており、北朝鮮と外交的関係が悪くないとしても、金委員長の選択は、伝統的友好国である中国やロシアを除いてはなかなか外国を訪問しなかった父親の金正日(キム・ジョンイル)総書記とは明確に異なる。金正日総書記は2000年、史上初の南北首脳会談で金大中(キム・デジュン)大統領と約束したソウル訪問も、結局実行しなかった。
このため、金委員長の今回のシンガポール入りは、1965年にバンドンで開かれたアジア・アフリカ諸国非同盟国家会議(バンドン会議)10周年記念行事に出席した祖父の金日成(キム・イルソン)主席の活発な外交行動に匹敵するものと評価されている。金日成主席は数十回にわたって中国を公式・非公式に訪問しており、1984年には46日間、ソ連と東欧8カ国の歴訪に乗り出したこともあった。ただし、バンドン会議が米国とソ連が排除された非同盟国家の会合だったことから、70年間にわたり“敵対関係”にあった米国との談判のためにシンガポールを訪れた金委員長の選択は(金日成主席とは一線を画す)「金正恩流外交」の決定版といえる。