1987年7月9日、延世大学で行われた李韓烈(イ・ハンニョル)烈士の告別式に集まった多くの群衆の中に、34歳の日本人の若者がいた。告別式で烈士26人の名前を呼ぶ文益煥(ムン・イクファン)牧師の演説と、100万の群集と一緒に歩いてソウル市庁前まで行進したあの日の熱気を彼は昨年冬、光化門(クァンファムン)広場のろうそく集会で再び感じた。もうその熱を忘れてしまったような日本の市民たちに再び思い起こさせるため、日本人の村山俊夫(65)はろうそく集会を記録し始めた。
彼が最近、高木望というペンネームで『広場の声ー日本人の目で見たろうそく革命134日の記録』という本を出版した。1972年度に大学に入学した彼は、全共闘など1968年以降の日本の学生運動に影響を受け、大学を中退して豚の皮の加工工場に就職して7年間勤めた。彼はニム・ウェールズの『アリランの歌』に出てくる、革命家キム・サンに魅了されて1986年に韓国に来て、高麗大学と延世大学語学堂で1年間韓国語を学んだ。その後、京都に住みながら韓国人を対象に観光ガイドと通訳の仕事をしながら、俳優アン・ソンギを扱った『青春じゃなくてもいい』(日本題:『アン・ソンギー韓国「国民俳優」の肖像』、2011)、日本から韓国にラーメンが渡来した過程を描いた『インスタントラーメンが海を渡った日』(2015)という本も出した。「次の本は韓国で生活をしながら書きたい」と考え、2016年7月に妻と一緒に韓国に入り、現在は日本語講師として働いている。
塾の周辺の鍾路2街の考試院で暮らす彼は、近くの光化門一帯で開かれたろうそく集会に、2016年10月29日に始まった第1回から計12回参加した。本は、国内のマスコミ各社の記者が書いた記事に劣らないろうそく集会のルポとろうそく集会に参加した人たちのインタビューが盛り込まれた。2日、ハンギョレ新聞社で会った彼は「延べ1700万人が参加して平和的にデモを行い政権を交代させたろうそく集会は、日本だけでなく世界に伝える価値があるという思いで本を書くことにした」と話した。この本は昨年8月、日本で『韓国で起きたこと、日本で起きるかもしれないこと: 日本人が目撃した韓国市民革命』というタイトルで先に出版された。村山氏は笑いながら「『安倍政権を崩す方法を教えます』というタイトルを書こうかとも考えたけれど、あまりにも露骨なので自制した」と話した。
最近は韓国のデモ文化が日本に影響を与える流れがあらわれている。「日本で韓国のろうそく集会にならって私たちも夜にろうそくを持ってやってみようと言ったのが昨年からだ。もともと日本は週末の昼にデモをするのが一般的で、夜は集まっていなかった」。先月19日、日本の国会議事堂前で3万人(主催側推算)ほどが集まった安倍退陣要求の集会で、ユン・ミンソク氏が作ったセウォル号の追悼曲「真実は沈没しない」を日本語で歌う映像が国内で話題になったりもした。「最近はラップを歌うこともあったが、もともとデモで歌を一緒に歌うのは日本ではない文化だ。87年6月抗争当時も、デモで民衆歌謡をたくさん歌うのが不思議に感じられて、歌の歌詞を書いた寄稿を日本のマスコミに送ったりもした」
彼は公文書改ざん、自衛隊文書隠蔽、首相の友人への特別待遇疑惑など「到底許せないことをした」安倍政権は退陣しなければならないと考えるが、デモの規模が小さいことへの残念さを吐露した。「長期間執権した自民党をはじめ保守勢力がマスコミ掌握などを通じ、巧妙なシステムを築いてきた。2009年から3年間民主党が政権を握ったが、福島原発事故に十分に対処できないなど、国政運営がうまくできず国民に失望を与えた。韓国では進歩的な共に民主党が政権を維持できるだけの支持基盤があり、政権を担う能力があるが、日本では自民党に代わる勢力が弱い」
南北首脳会談など南北の和解の局面で疎外を自ら招いた政権が、現在の状況認識にも問題点を露呈していると批判した。彼は「安倍政権は、冬頃まで朝鮮半島の戦争危機を最大限に利用して選挙で勝ち、軍備を拡充することだけに関心があったが、突然平和の局面に突入するとは考えられなかった」と話した。さらに「保守勢力はこれまで北朝鮮に対する警戒心を刺激して政権を維持してきており、今回も核問題の解決なしに平和協定は時期尚早だという形で出ている。政府に批判的な朝日新聞も全面的に統一と和解を支持する論調ではない」と、日本の世論を伝えた。
だが、彼は今後、韓国と日本の市民の交流が希望ある結果を生むだろうと見通した。「韓国では東学農民運動から伝わる民衆抗争の歴史があり、今回のろうそく集会もそのような歴史を受け継いだ。一方、日本は1960~70年代闘争の経験を受け継ぐ努力が足りなかった。だが、これから日本と韓国の市民が抵抗の経験を共有して助けあうなら、固定化された日本の政治状況も変えることができるはずだ」