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[インタビュー]関東大震災虐殺後に遺された家族の歴史を映画に込める

登録:2015-09-23 22:15 修正:2015-09-29 17:17
3作目の映画を作る呉充功監督
呉充功監督 =キル・ユンヒョン特派員//ハンギョレ新聞社

 「来年には必ず完成させたい。財政問題もあって難しいが、やらなければ」。韓国ではあまり知られていないが、関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺問題に関心がある人ならば、呉充功(オ・チュンゴン)監督(59)の名は決して忘れられない。彼が30年以上前に作った二本のドキュメンタリー映画『隠された爪跡-関東大震災と朝鮮人虐殺』(1983)と『払い下げられた朝鮮人-関東大震災と習志野収容所』(1986)は、1923年の関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺を、当時加害と被害の側に立った生存者の証言を通じて再構成している。 当時の大虐殺を90余年前に発生した偶発的事件程度として記憶している多くの韓国人は、映画を見た後に押し寄せてくる衝撃に当惑し耐えらえれなくなる。

 在日朝鮮人2世の呉充功監督は、朝鮮人虐殺に関連した二本の問題映画を出した後、30年余り映画の世界から離れていた。33歳で結婚した後、茨城県にある父親の会社を経営し生業に従事してきたためだ。

83年『隠された…』 86年『払い下げられた…』
関東大震災朝鮮人虐殺記録映画2本を作り
30年ぶりの映画 その後を扱った作品製作
「東日本大震災と嫌韓熱風を見て
今日までに真相究明のためにどんな努力が
なされたかを込めたいと思った」

 4年前の2011年3月、東日本大震災が起きた。呉充功監督は関東大震災研究で名高い在日史学者の姜徳相(カン・ドクサン)先生(在日韓人歴史資料館館長、83)から連絡を受ける。彼は呉充功監督に「2作目の映画を撮った後30年間に起きた変化をもう一度記録として残す必要があるのではないか。このまま止めれば呉充功監督は未完成で終わってしまった」と話した。

 「その話を聞いて悩みに悩んだ」当時、地震被害によって複雑な状況に置かれていた呉充功監督は、長い悩みの末に3作目の映画を作ることを決意する。当時、日本社会で少しずつ吹き始めた“ヘイトスピーチ”等の嫌韓熱風も彼の決心に少なからぬ影響を与えた。

 呉充功監督は「新しい映画では、1923年9月1日に関東大震災が発生した後、2015年までにこの死を巡ってどんなことが起きて、真相究明のためにどんな努力が続けられたのか、歴史全体を扱う予定」と話した。大地震が発生した後に日本に来て、初めての真相究明活動をした故崔承萬(チェ・スンマン、1897~1984)から、その後に関連研究を進めてきた研究者の姜徳相、故琴秉洞(クム・ビョンドン)、山田昭次(85)、そして地域で着実に真相究明運動をしてきた日本の草の根団体と韓国の遺族たちの経過を盛り込む予定だ。 映画のタイトルはひとまず「遺族と遺骨はどこに」に決めた。呉充功監督の新作に関心が集中する理由の一つは、彼の前作が成し遂げた優れた成就のためだ。

 呉充功監督の初めての映画である『隠された爪跡』は、1923年の大虐殺の時にかろうじて生き残った在日朝鮮人チョ・インスン(1902~1984)老人の事情を軸に、事件を直接目撃した20人余の証言を集めた作品だ。 この映画は最初は彼が通っていた横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)の卒業作品として企画された。「関東大震災の時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」が1982年9月に東京荒川辺の旧四つ木橋付近で起きた虐殺犠牲者の遺骨を発掘するという消息を聞いた呉充功監督は、カメラを持って発掘現場で駆け付けた。

 映画の主人公であるチョ老人は、1923年2月に慶尚南道居昌(コチャン)から日本に渡って来た後、あちこちを転々として建設現場で日雇い労働者として働いた。地震が起きた日は現在の東京押上付近の工事現場にいたチョ老人一行は、避難して四つ木橋付近で消防団に捕らえられた。以後、チョ老人は自警団、日本民衆、警察などから攻撃を受けからがら助かった。2作目の作品である『払い下げされた朝鮮人』では、チョ老人が収容されていた千葉県の“習志野収容所”で、当時の日本軍が周辺の村人たちに朝鮮人を虐殺するとして“払い下げ”した事件を扱った作品だ。 「日本人も日本政府も、自分がやったことはやったとはっきり話さなければならない!」(チョ・インスン) 、「村の人々が「長くは生きられないだろう。どのように死にたいか」と(縛られてきた朝鮮人に)尋ねた」(虐殺に加担した村の住民、君塚氏)。呉充功監督が記録していなければそのまま消えてしまった被害者と加害者の生き生きした証言が残って、当時の惨状を私たちに伝える。 特に加害者である君塚氏がカメラを前に自身の加害経験を告白した長い証言は、この映画の白眉だ。

 以後、30年余りの間に韓国と日本の市民の努力で多くの変化が起きた。彼の初めての映画の背景になった東京荒川辺の虐殺現場には、2009年に日本政府と民衆の責任に明確に言及した追悼費が建設され、2作目の映画の背景である習志野では無惨に虐殺された朝鮮人のものと推定される遺骨6体が発掘された。 以後、韓国の遺族たちがあちこちで確認されている。呉充功監督は韓国の遺族たちに会うために昨年は済州島(チェジュド)、先月は慶尚南道咸安(ハマン)を訪ねた。 彼は「犠牲者の後には遺された家族がいる。そのような歴史を映画に多く盛り込みたい」と話した。

 呉充功監督は当時の朝鮮人虐殺事件の真相究明が難しいのは、「加害の主体が日本軍や警察ではなく日本の民衆自身であるため」と話した。 真実を隠そうとする地域社会の無言の圧力は今でも続いている。「日本の人々が再びこうしたことを繰り返さないようにするためには、加害者と被害者が同時に歴史を認識しなければなりません。しかしそのような共同作業にはまだ道が遠いようです。当時、虐殺に民衆が直接加担したという傷が深いということでしょう」

東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/710122.html 韓国語原文入力:2015-09-23 18:43
訳J.S(2594字)

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