慶尚南道陜川(ハプチョン)と聞き何を思い浮かべるだろうか。おそらく八万大蔵経がある海印寺(ヘインサ)を思いつく人が多いだろう。人によっては全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領の故郷や陜川ダムを挙げるかもしれない。あまり知られていないようだが、陜川は“韓国の広島”とも呼ばれる。陜川と1945年に原子爆弾が投下された日本の広島に、どんな関連があるというのか?
まずは陜川の自然環境と歴史的な背景を振り返らなくてはならない。陜川は山奥にある。西、南、北に伽耶山、梅花山、飛鳳山、斗霧山、吾道山、黄梅山など、海抜千メートルを超す山々がある。以前は耕作地が足らず暮らしていくのがやっとだった。
日帝強制占領期の1920年代に洪水とコレラが陜川を襲った。地主は小作農にでたらめに高い小作料を要求した。1922年当時、陜川の農業人口(1万9575人)の82%(1万7128人)が小作人だったとされる。災害と伝染病、地主の横暴に苦しめられた陜川の小作農は故郷を離れた。彼らのうち相当数が日本の広島に渡った。兵器を作る工場が密集し、仕事が多かったためだ。そして1944年、日帝の徴用令で陜川の住民3360人が日本などに連れられて行った。
1945年8月6日午前8時15分、米軍爆撃機が広島の9600メートル上空から原子爆弾を投下した。米軍は3日後の8月9日、長崎にも原爆を投じる。広島と長崎でおよそ70万人が原爆の放射能を浴び、約23万人が亡くなった。
多くの韓国人は米国の原爆投下が日帝の抗戦意志を削ぎ降伏を導いたと考える。米国の原爆が8・15光復(解放)をもたらし、原爆で亡くなった日本の人たちは侵略戦争を起こした悪業の報いなのだと感じる。
だが、原爆は日本人だけを狙ったものではない。韓国は世界で2番目の原爆被害国だ。各種研究によると、1945年8月に広島と長崎で朝鮮人7万人余りが被爆し、4万人余りが命を失ったと推定される。
広島の朝鮮人被爆者の中で多数を占めるのが陜川の人たちだ。光復後、彼らが陜川に戻り2、3世が生まれ、陜川郡は“韓国の広島”と呼ばれることになった。古い統計ではあるが、1974年に原爆被害者援護協会の陜川支部が行った陜川郡被爆者実態調査によると、陜川地域の被爆生存者は3867人いた。被爆者だけでなく、その子供まで各種疾病と貧困に苦しめられている。
韓国人被爆者には被害者しかなく加害者はいない。日本は侵略戦争の責任をはぐらかすように“原爆被害者”を自任し、日本人被爆者だけを世話してきた。“血盟”となった米国に原爆投下の責任を問うこともできない。そして韓国政府は国内の被爆者に関心がない。今年で原爆投下70年になるが、国内被爆者の被害実態は誰にも分からない。政府は今までまともな実態調査すらしてこなかった。
政府が対策をたてるを待ってばかりはいられない状況だ。そこで純粋な民間の力で2010年3月、国内の原爆被害者を救う市民団体であり被爆2世の憩い場となる「陜川平和の家」がオープンした。陜川平和の家は、広島に原爆が投下された日(8月6日)の前日の5日、「原爆被害者、あなたを記憶します」というテーマで陜川各地で非核・平和の大会を開く。大会は2012年から毎年開かれている。被爆者の個人的苦痛を社会的記憶に引き上げる努力でもある。
大会が開かれる陜川まで行くのが難しいなら、オンラインの認証ショットで参加することもできる。まず「私は韓国人の原爆被害者を記憶します」と紙に書いたり出力する。その紙を持ち写真を撮る。最後に写真を登録。登録場所はキャンペーン・フェイスブック(www.facebook.com/remember194508)参照。
韓国語原文入力2015-08-04 23:36