アー! この文を書いている時に全教組を法外労組化すると通知した政府の処分が正当だという裁判所の判断が出された。 この地では労働の権利がそれほどつまらないものなのか。 道が遠いことを痛感する。 だが、挫折も放棄もすまい。 意味あることは常に困難だ。 私たちが行く道が困難なのではなく、困難な道であるから私たちが行かなければならないのだ。
私だけだろうか、もう新聞紙上やテレビ画面で彼らの表情を見ることさえうんざりだ。 人事聴聞会のおかげだろうか、専横で人事権を行使できないことが、そして候補者の素顔を覗き見ることができるようになったことが、それはそれなりに幸いなことだ。 だが、同じ方式で進行され結末を見るスペクタクルを止める日はいつになったら来るのか?
「恥を知らなければならないからだ。」
帰国する前「我々はなぜ歴史を学ばなければならないか?」という私の問いに対する、フランスの大学で歴史を教えるある教授の断固たる返事が脳裏を離れないのは、反歴史的歴史観を見せたムン・チャングク総理候補者のためばかりでない。 強者の論理に寄り添った彼の言説は、6万組合員の中に9人の解雇者がいるという理由で全国教職員労働組合(全教組)を法外労組化すると通知した朴槿恵(パク・クネ)政府の手のつけられない状態と、力の論理だけに従うという点で同じ根にある。 国際的な普遍規範に知らぬフリを決め込んでいるとは言え、労働者の権益を代弁しなければならない雇用労働部が労働弾圧の先頭に立って‘非正常の正常化’を云々するのだかた言う言葉を失う。
私たちが記憶闘争を怠ってはならないのは、私たちが簡単に忘れるためだが、候補時期に「増税して財源を増やさずに、どのようにして福祉と経済民主化を成し遂げるというのか?」という文在寅(ムン・ジェイン)候補の質問に「だから私が大統領になるということじゃないですか?」と応酬し、そして当選に成功した今日の朴槿恵大統領から、福祉と経済民主化は跡形もなく消えた。 その空いた場所に代わりに入ったのが規制に対する敵がい心だ。 彼女にとっては全ての規制が癌の塊りに過ぎないように、この地の社会貴族になるための一次的条件は、節制を遠くに投げ捨てるところにある。 貪欲の追求、競争と効率を根幹とする新自由主義精神の実現だ。 資本にとってそれが「利益の私有化、損失の社会化」を意味するならば、個人にとってそれは「名利は私に、責任と倫理は犬にでも」と言うことになる。
そして、資本の限りなき利潤追求のために、構成員の安全をはじめとする公共性の要求から社会に適用されてきた規制をなくさなければならないように、立身出世を目標にする個人は共同体の一員として持たなければならない徳性の一つである節制を捨てなければならない。 2期朴槿恵政府を構成する新総理と教育部長官、安全行政部長官、国家情報院長、大統領府教育首席内定者をはじめとする人物から決まって漏れてくる図々しさや臭気は、私たちの社会から節制の美徳が消えたことを加減なしに示す。 実際、彼らが恥ずかし気もなく笑顔を見せられるのは、それだけ彼らが強力な勢力を構築しているという恐ろしい真実を、またこの地に社会貴族体制がそれだけ堅固になったという事実を語っている。 彼らの特徴は社会各部門に君臨する者の noblesse oblige(指導層が持つ道徳的義務)がないという点だ。 公約を使い古した履物のように捨てても、変わらず投票し、支持して羨望して従うのに、なぜそんな足手まといな義務を自ら負うだろうか。
東洋で美徳の一つとして尊重されてきた節制は、西洋でも古代ギリシャ時代から重要な徳性の一つとして強調されてきた。 この節制は三方向に作用する。 各自の内面の省察から始まる自己節制、相互牽制と批判によって作用する節制、そして民衆の批判力を通じて作用する節制がそれだ。 最も高級な自己節制については別に説明する必要がないだろう。 たとえば、言論が政治権力を批判したり、学問が言論の現実を批判することによって行為者たちに節制するよう作用することが水平牽制による節制だとすれば、投票などの行為を通じて当選または落選させることにより為政者に節制するよう作用することを民衆の批判力による節制だと言える。 この三つの方向の節制は、別々に作用するというよりは互いに影響を及ぼして作用する。 「国民の水準を跳び越える政府なし」というトクヴィルの言葉を引用するまでもなく、民衆の批判力が最も重要だということは言うまでもない。 また、ここでも「何の疑問も抱かずに機械的に従って行動する人々が最も危険な人々」という警句はそのまま適用される。 大衆の無知と無関心が決して中立になれないという点でそうだ。
弟子の論文を盗作したり横取りし研究費を着服する‘教育’界人士が横行する現実は、弱者の持分を奪う甲乙関係がここまで及んだのかという虚脱感すら抱かせる。 ここで私たちが一緒に指摘しなければならない点は、彼らに節制を期待できないのは彼らだけのせいというよりは社会部門間の水平牽制と特に民衆の批判力がきちんと作動していないところから来た帰結だという事実だ。 行政、司法、言論、企業、学問、宗教の間に成り立たなければならない水平牽制は、社会貴族間の癒着と、地縁、学縁、血縁などの縁故主義により力を失って久しい。 相互批判や牽制が成り立たずに、腐敗した者であるほど自身を保護するためにも自身と同じく腐敗した者と「俺たちが他人か」と言いながら仲間を作り、清廉な人を遠ざけたり組織から追い出すことに力を寄せ合う。 社会のすべての部門で「悪貨が良貨を駆逐する」グレシャムの法則が適用される現実は、何よりも民衆の批判力が脆弱だという悲しい真実の反映物である。 権力であれ資本であれ、持てる者は持たざる者を人間扱いすらしない時(ルソーがかつて話したように、民衆は4年か5年に一度投票する、その一日だけが自由だ)、持たざる者が既得権勢力を批判的に眺めるのではなく反対に彼等のことを心配してやるならば、どうして彼らが節制の美徳を持つだろうか。
一方、私たちは廉恥や節制を持たずに名利だけを追求する人物を非難することがある。 それでは私たちは彼らのようになることを自ら拒否したのだろうか、それとも能力が不足して彼らのようになれなかったのだろうか? 社会の中に節制の美徳が息づかない時、自分だけは節制を守るという確信は、たいがい節制するタネや機会すらない人の役割である可能性が大きい。
したがって問題のカギは社会環境と勢力関係にある。 それを規定するのは社会構成員の意識であり、社会構成員の意識形成に最も重要に作用するのは言うまでも無く教育だ。 このことを主流支配勢力が一層よく知っている。 朝鮮、東亜をはじめとする保守言論が全教組を否定して、アカ攻撃で引きずり降ろすことに腐心してきた点からも、今回の地方選挙で進歩教育長が大挙当選したことに大変なことでも起きたかのように大げさに騒いで不安感を煽っていることからも、勢力関係の形成において教育が多大な影響を及ぼすことを誰よりもよく知っているためであり、今まで彼らに有利な側に大きく傾いていた勢力関係にたとえ小さな変化でも起きるのではないかと心配するためだ。
アー! この文を書いている時に全教組を法外労組化すると通知した政府の処分が正当だという裁判所の判断が出された。 全教組が雇用労働部を相手に起こした法外労組化通知取り消し訴訟で政府の手を上げたのだ…法律ではない施行令だけで下した法外労組化通知が適法だとは…この地で労働の権利はそれほどつまらないものなのか。
道が遠いことを今一度痛感する。 だが、挫折も放棄もするまい。 ややもすれば私たちが陥りやすい陥穽の一つは、嘆くことで自身の倫理的優越感を確認し自己満足に留まるところにある。 実際、世の中が嫌だと嘆くことは容易なことだ。 慨嘆を越えて怒ることができなければならず、怒りを越えて参加して連帯して説得できなければならない。 人々が既存の考えに固執するので説得が難しいとして、それで全部を説得することをあきらめて生きて行くならば、世の中の変化をどうして引き出せるだろうか。 意味あることは常に困難だ。 今一度再確認しよう。 私たちが行く道が困難なのではなく、困難な道であるから私たちが行かなければならないのだ。
ホン・セファ<言葉と弓>共同発行人