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[朴露子ハンギョレブログより] 愛とは何か?

http://www.aladin.co.kr/shop/wproduct.aspx?ISBN=8954419623

原文入力:2011/06/14 20:44(3306字)

朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

私は今、労働時間であるのに異例的に家で座って我が町の歯医者での約束時間を待っています。突然に歯痛の奇襲(?)を受け、ほとんど読書ができないほどです。ところで、このように痛い時に私にとって最高の鎮痛剤は文を書くことです。永らく考えてきたことを文に整理していると、なぜか痛みが少し遠のきます。"作文療法"とでも言いましょうか? 今日の主題は、私が思春期の時から考え続けてきた主題なので、ほとんど20余年間の悩みをなんとしてもこの機会に整理しておけば この恐ろしい歯痛が少しは和らぎそうで、このように文を載せてから歯科に行こうと思います。

私は今でも1991年の夏に列車に乗って黒海の休養地からレニングラードに帰る3日間をとても鮮明に記憶しています。それがソ連の最後の夏であったという事実、その後は私どものような一線の知識働き手が黒海の休養地に対する夢を完全に捨てなければならなかったという事実、そしてわずか1年後にはガス銃を携帯せずには外出することさえ恐ろしい準内戦的状況が到来したという事実 -これら全ての事実を私はその時に知る由もありませんでした。ところで、その列車旅行を今でも記憶している理由は、ガス銃なしで気楽に行ってくることができた最後のソ連式旅行だからではありません。黒海北岸を離れた時に名前も知らないウクライナの鉄道駅で偶然に新聞売り場でエリック・プロムの<愛の技術>を運良く買い、レニングラード到着までその本を閲読しほとんど覚えるほどになって、今でもその旅行を  'プロムとの出会い'として記憶しています。新聞売り場にはイエローペーパーとエロ雑誌の他には何もない今日のロシアを念頭に置くならば、20余年前のソ連で新聞売り場でサルトルや日本の短歌集、老子道徳経の露訳、あるいはプロムを買えたということはほとんど信じられないながらも厳格な事実でした。ペレストロイカ時期であり冷戦期間に外国思想への接近を制限されてきた人民は、その時に "外国進歩思想" や "外国古典" に対する強い熱気を示しました。そうだ、プロムのこの本はうれしいことに翻案された国訳本もありますあ()国内でどの程度 読まれているのか私としてはよくわかりません。とにかく、その時に窮屈な列車の寝台でその本を読んで得た悟りを、その後20年間 忘れることができませんでした。

人本主義的マルクス主義者であるプロムは、真の意味の愛を "所有欲" の正反対に定義しました。"所有欲" ということは自我本位的な、自我指向的な、そして本質的に他者に対し排他的な欲望です。親孝行をすることで孝行息子/孝行娘の声を聞きたい欲望、子供への"投資"をすることで老後に子供から"慕心"を受けたい欲望、"私の女/男"がひたすら"私"にだけ属することを願う欲望-はこの社会で"愛"だと誤解されている各種 "所有欲" の類型です。その中では恐らく最も涜神的であるのは、さい銭(仏銭)献納や教会出席、数千拝を上げる等々を通じて "私" や("私"の連続と認識される)両親/知人のために天堂/西方浄土に "一つの席"を用意しようとする欲望です。本当のところ、仏様/神様の愛の名で神との"自我本位な"取り引きを試みる人より、いっそ殺人の悪業を犯し地獄に行く覚悟で抑圧者を相手に手榴弾を投擲する正義のテロリストが天堂/西方浄土に行く方がさらに当然な道理だと思います。彼は悪業を犯すにしても、少なくとも自分自身のための悪業ではなく他者との共通の業を向上させるための自己犠牲的な悪業であるためです。

愛というものがまさにそれです。他者の立場に立ち他者に対する自身の排他的な欲望を捨て、他者の目で世界を見て他者の欲望を喜んで受け入れることです。"私"の痕跡がないほど愛の純度が高まることになっています。 神が存在するならば人間に対する神の愛はまさにそうでしょう。神が私たちに "私を迎えなさい","私に礼拝しなさい"と欲望しはしないだろうし、私たちが他者との関係網の中で他人の幸福を建設してあげ、その過程で自分たちもまた幸せになることを神は望むだけです。人間の愛は神の愛ほどには"無我的"にはなれないものの、ひとまずこの方向で努力することが私たちの存在の本当の意味ではないか。例えば私が私の長男のユーリー君を、奴が19才(ノルウェーでの成人年齢)になったその瞬間に"放生" (?)しようと思います。本人がもう十分に大きくなったから自分で生きろと、彼の人生に対する一切の干渉を絶対にしないつもりです。もちろん彼が私に支援や相談などを要請すれば、それを適切な限度内で受け入れる用意はありますが、彼との関係を基本的に互いに同等な他人間の関係形態で建設しようと思います。それでこそ、彼に対する所有欲が起きないだろうし、また、それでこそ彼を本当に愛することができると思うからです。そして私は老後に子供から"扶養"とか"親孝行"を受けるつもりは全くありません。他人に対し文章などで役に立つことができず、かえって他人の助けに依存しなければならない状態になる前に、どうか私を黄泉に送ってくれるよう常に祈っているのです。上の方法で子供との関係を設定しようとすれば父子両者が内面的にちょっと強くなければならず、ひとまず子供の自立心を育てることは "国、英、数" より重要な教育の目的ですね。

男女の愛となれば、独占欲という毒薬が一番広がりやすい領域です。さらにはこの狂ってしまった世の中の最も悪質的な抑圧装置の一つである排他的な一夫一婦制がこのような独占欲を法制化までさせると、より一層 所有欲を愛と誤解しやすくなります。 私にとって(プロムの定義に適う)真の男女愛の模範はロシア革命詩人 マヤコフスキーと文学研究者/革命家 オシップ ブリークの夫人リーリャ ブリーク(http://en.wikipedia.org/wiki/Lily_Brik)の愛です。1915年、夫人リーリャが青年詩人マヤコフスキーとの愛に陥った時に、その夫 オシップ ブリークは喜んで、マヤコブスキーを呼び3人で一つの暮らしを成り立たせ一緒に住むことになりました。オシップ ブリークとマヤコフスキーは、嫉妬を感じるどころかとても懇意な友人になったといいます。1923年以後、マヤコフスキーとリーリャはもはや肉体的関係はほとんど持たなかったものの、やはりとても親しい友達として過ごし、その上 リーリャはマヤコフスキーと新たに愛に陥ることになったまた別の多くの女性たちと親しい友人になるケースが多かったのです。オシップ ブリークとリーリャ ブリーク、そしてマヤコフスキーの間に各種の"試練"はあっても、一つだけ絶対に無かったものは嫉妬でした。世界から "所有" というものをなくするために自身の人生を捧げる革命家たち故にそうだったのでしょうか? 必ずしも革命家だけが真の(非所有的な)愛を実践できるわけではありませんが、概して共産主義的革命と真の意味の愛とは同じ方向へ向かう同質の問題だと考えます。共産主義とは私有と利潤からの自由を意味することであり、真の愛は所有欲と独占欲からの自由です。共産主義者だけが本当に愛することができるわけではありませんが、共産主義者ならば少なくとも自身の所有欲に対し"距離を置くこと",相対化、窮極的には消滅作業をしなければならないと思います。

ああ、永らく考えてきた話を文に整理してみて歯痛が少し軽くなりました。とにかく、約束時間に合わせて今は歯医者へ行ってこなければなりません。

原文: http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/35697 訳J.S