原文入力:2010-11-24午前08:23:44(1707字)
1970年代、外国首脳たちが韓国を訪問すれば学生たちは両国の国旗を持って路上に集められた。言論は連日、国民動員の先頭に立った。主要20ヶ国(G20)会議を行うに際し国民は動員対象に転落した。やはり先鋒は言論だった。
バラ色展望を振りまきすぐにも世界をリードする国になるかのように大げさに騒いだ。政権は大型国際行事を政治的に利用したい誘惑にかられるものとしよう。しかし言論はそうであってはならない。呼ばれるままに書き写し膨らませることに先に立つ言論は広報機関に過ぎない。一部の言論らは首脳会議の成功が即ち国益であり、言論はそのために迎える雰囲気を作る役割をしなければならないという強迫に陥っていた。国民にはひたすら議長国という幻想を植え付ける一方、外国に対しては我が国を美しく飾り照らすことが国益のために言論がすべき仕事だと信じているようだ。
こういう言論らに批判的報道は立つ場所がない。そのような我が国の言論らの報道は国益に助けになるどころか、国民の批判と外国言論の嘲笑だけを買った。そのようにして前面に掲げた国の品格はかえって台なしになった。我が国民はもう言論によって動員される水準ははるかに越えた。ただし言論と政権だけが知らずにいるだけだ。
言論の見当違いの愛国主義はアジア競技大会報道でより一層猛威を振るっている。 競技関連報道が連日新聞紙面を覆い、放送会社はニュース時間の半分以上を割りあてアジア競技大会報道を吐き出している。報道量だけが問題ではない。我が国の選手とチームに対する一方的愛国主義報道はより一層深刻だ。メダル数集計に執着し私たちの社会の慢性病と言える序列化を煽る先頭に立つ。我が国選手たちの善戦を通した国民の代理満足作りに余念がない言論だ。
多様性を尊重しその価値を受け入れるよりは、画一的に一列に並ばせ等数を付けてこそ気がすむためだろう。言論が国際競技を国家間の競争にして勝利とメダル獲得を中心に報道する問題は今に始まったことではない。エリート選手たち中心の祭りではあるが、アジア競技大会はアジア人の祭りだ。競技は基本的に競争という属性を帯びるほかはないがそれが全てではない。
アジア競技大会を契機に共同体にいる他の国に対する関心と理解を広げ、疎通の機会を作っていかなければならないという本来の意味はすでに退色して久しいと叫ぶ。それでもひたすら、それに迎合し便乗しているのは、言論であること自身を放棄することだ。言論は大会報道を通じて最小限、共生と平和そして共存という意味を探そうとするフリくらいはしなければならない。韓国の言論が韓国にやや友好的な報道をするのは人の常だ。我が国の選手が競技に勝つことを願う心はどの国民でも同じだろう。だが、競技の勝敗にばかり執着する姿は本来の意味を変質させてしまう。
愛国主義は必然的に政権に対する支持につながるのが常だ。それでいつも独裁政権は愛国心を強調し大きな国際行事とスポーツを利用する。これを煽るにはやはり言論が最も適格だ。言論の愛国主義と扇情主義があきれるほどに合致するのが国家対抗スポーツ競技だ。国家代表選手たちの競技に国民は熱狂し視聴率は上がる。
何であれ度を越せば毒になる。自国中心の報道は国家間の競争と反目を呼び起こすだけだ。ともすれば祭りを争いの場にすることだ。競技判定に対する不満が爆発し台湾で太極旗が燃え、我が国の製品が路上に捨てられている。私たちの国民の胸中にも他国に対する競争と排他的意識の種を言論が育てているのではないか心配だ。
言論の偏狭な愛国主義が人類共同の平和と和合の障害物を作る。愛国主義は真実を求めようとする合理的疑問さえ‘どこの国の国民か’と追い詰める。古い愛国主義の亡霊のために真実の立つ場所が日に日に厳しくなる。
チョン・ヨンウ世明大 広告広報学科教授
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/450273.html 訳J.S