原文入力:2010-08-31午後09:20:16(1578字)
銃砲を避ける国防軍、
標的のようによく当たる人民軍、
倒れる中国支援軍
朝鮮族たちはあきれて笑う
2006年<韓国放送>が放映したドラマ‘ソウル1945’を感銘深く観た。朝鮮族たちが集まり暮らしていた延吉では、夕方になると人々が早目に茶の間に集まったために通りは閑散としていた。‘ソウル1945’が朝鮮族たちの心をとらえることができたのは、韓国の既存‘一方的’ドラマではなく、親日と反日、親米と反米、国軍と人民軍の多様な姿を通じ、南と北の思想と立場、見解と理想を等しく見せた稀有な作品だったためだ。
‘ソウル1945’は南と北に隷属せず、客観的に韓半島の平和と統一を念願する朝鮮族たちの立場と情緒にもよく合致した。それでドラマが放映される間、朝鮮族たちはドラマにどっぷり浸かり劇中人物と喜怒哀楽を分かち合いながら韓半島の未来に希望を持たせることができた。
しかし4年が過ぎた今日、6・25戦争60周年を迎え<韓国放送>と<文化放送>が放映したドラマ‘戦友’と‘ロードナンバーワン’は再び‘北韓’と人民軍、支援軍を敵と名指しし戦友愛とラブストーリーを主題にした現代版‘一方的’アクションドラマに過ぎない。
今日も北側の人民たちは‘苦難の行軍’時期にそうだったように「はやく戦争が起きて、死のうが生きようが勝負がつかなければならない」として、生活の疾苦を戦争に訴えている。しかし南側の国民たちは戦争は不可とする反面、統一は語る人がいない。ややもすれば現政権によって‘親北韓左派’に追いやられかねないためだ。‘戦友’と‘ロードナンバーワン’はこういう難しい政治的局面を忌避し‘一方的アクション’で観衆集めに出たし、実際に6・25戦争であった話を大挙投じてみるが、真実感に欠けドラマの内容と主題、前後とアクションが互いに関連性を失い ぎこちないばかりだ。
この頃‘戦友’と‘ロードナンバーワン’で、茶の間で‘国防軍’を避けて行く銃砲音が騒がしく、標的のようによく当たる人民軍と支援軍の倒れる姿が見苦しい姿であることを見ながら、朝鮮族たちはあきれつつ笑っている。これが<韓国放送>と<文化放送>の水準で李明博政権の水準かと。理由がどうあろうが統一を希望する朝鮮族たちには2000年と2007年の南北首脳会談で民族が歓呼する姿が申し分なく良かった。李明博政府によって南と北が梗塞局面できっ抗した気流が流れる今、再び茶の間で韓国の一方的ドラマも見なければならない不便は並大抵ではない。
歴史と文化と血縁で韓半島と紐帶関係を持っている朝鮮族は、海外同胞として当然に韓半島の平和と統一に立場と見解を持つことができる。また、彼らが望むのは一つの韓半島と一つの故国なので高い次元での公正性を持っている。むしろ民族史で見る時、現存する南と北の政権と政党、国民は民族の大業である統一にを逆らう反民族的な朝代であり、自らの安逸だけを考える無責任な政党と国民でありうる。
今こそ前の世紀の60~70年代を踏襲せず、もう少し客観的に6・25を評価する努力が必要だ。戦争の元凶である人民軍の赤化統一も客観的に照明されなければならないだけでなく‘米国帝国主義侵略をはね除け国を求めて’走っていった朝鮮族支援軍将兵たちも照明され複雑多端だった6・25戦争から民族同士が教訓を得て信頼を積み上げるよう努力しなければならない。6・25を記念する目的はまさにそこになければならない。
リョ・ホギル<黒龍江新聞>コラムニスト
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/because/437690.html 訳J.S