朝鮮政府が、日本軍による景福宮の占領に怒り第2次蜂起に踏み切った東学農民革命軍を鎮圧する方針を確定したのは、1894年10月20日(陰暦9月22日)のことだった。高宗はまさにその日、東学軍鎮圧作戦にあたる最高軍事機関である都巡撫営を設置し、これを率いる都巡撫使として、信望が厚く、対日交渉の経験がある申正煕(シン・ジョンヒ、1833~1895)を任命した。
申正煕は、日本軍が「朝鮮の都城に入り、夜中に王宮を撃破」したことに怒り「忠君愛国の心で」蜂起した(全琫準(チョン・ボンジュン)の第1次供述調書、1895年3月5日)東学農民軍にどう対応したのだろうか。残念ながら、これについて語れることはほとんどない。朝鮮軍に作戦命令を下せる、いわば「作戦統制権」が、申正煕ではなく日本陸軍予備歩兵第19大隊の大隊長である南小四郎少佐(1842~1921)に移されたためだ。
都巡撫営が設置される直前の16日、駐朝鮮日本公使の井上馨は、外部大臣の金允植(キム・ユンシク)に書簡を送り、「各地方官と出征隊の将官によく言い聞かせ、わが軍と心を一つにして協力し、すみやかに匪徒のせん滅の成果を上げられるよう、あっせんしてほしい」と要求した。朝鮮軍の作戦権を渡せという露骨な要求だった。日本軍がわずか80日ほど前の7月23日には景福宮に踏み込み、高宗を捕虜にして、さらに9月15日の平壌(ピョンヤン)の戦いで、「朝鮮の宗主国」を自認していた清を破った後のことだった。抵抗する能力も気力もなかった朝鮮政府は、この要求にやむなく応じてしまう。
東学農民軍に対する日本政府の「鎮圧方針」が朝鮮派兵軍に伝えられたのは、10月27日のことだった。兵站総監の川上操六(1848~1899)は仁川(インチョン)に置かれた南部兵站監部に電文を送り、「東学党に対する処置は厳烈なるを要す。向後悉く(ことごとく)殺戮すべし」と指示した。
東学農民軍を「悉く殺戮」しようとする日本軍の指揮官と、これに同意できなかった朝鮮軍の間で、深刻な対立が生じることは火を見るより明らかだった。朝鮮軍の先鋒を務めていた李圭泰(イ・ギュテ、1841~1895)が申正煕に送った書簡をまとめた『先鋒陣上巡撫使書附雜記』を読むと、目を覆いたくなるような惨憺たる記録が続く。
「日本軍は、命令の一つひとつ、行動の一つひとつにも干渉しないことがない」「日本軍が忠清監司に圧力をかけ、任務を止めている」「この村に入った後、はじめて日本軍の大隊長に会ったが、叱責のされ方は奴隷よりひどかった」
しかし、刀の柄を握ったのは日本だった。鎮圧作戦が終わる前の1895年1月22日、都巡撫営は解体され、申正煕や李圭泰らは左遷された。
過去の悲しい歴史を再確認したうえで、現在の現実を考えてみる。大統領府国家安保室のカン・ゴンジャク第1次長は、野党時代の昨年3月に出した著書『強軍の条件』で、「大韓民国の国土を防衛するために投入される韓米連合戦力には、米軍の戦力はいまやほとんどない」とし、「地上軍は99.9%が韓国軍の戦力、海軍は95%以上、空軍は90%近くが韓国の戦力」だと記した。それでも保守側は、北朝鮮による核の脅威が高まり、安全保障環境が急変しているとして、(戦時作戦統制権の返還に対して)「時期尚早論」を撤回せずにいる。韓国がいくら努力しても、米国に匹敵する軍事的能力を持つことはできないため、この論争はおそらく永遠に終わらないだろう。
ただし、もっと深く考えるべきことは、在韓米軍の性格が大きく変わり、米国の関与への意思も同様に弱まったことだ。第2次トランプ政権が発足し、「利己的な強大国」に転落した米国は、在韓米軍の目的を「韓国防衛」から「対中けん制」へと移行しつつある。さらに、朝鮮半島で戦争が勃発したとしても、大規模な米軍の増員兵力は来ないと考えなければならない。韓国の戦力が主軸となり北朝鮮の攻撃に対応し、相手側の核攻撃を遮断するために拡大抑止の公約を確実に保証されることが、韓国が米国に期待できる「関与の最大値」ではないだろうか。米国も同様に1月に発表した国家防衛戦略(NDS)で、明快な語調でそう述べている。
このまま何もしなければ、米国人の司令官が韓米連合戦力の90%以上を占める韓国軍を動かし、戦争を遂行することになるだろう。韓米の国益が鋭く対立する局面で韓国軍が躊躇すれば、「命令の一つひとつ、行動の一つひとつにも干渉」し、奴隷よりひどく、われわれを叱責するかもしれない。このような状況は、はたして正常だろうか。そうでないのであれば、勇気を出して変えなければならない。われわれが自立できてこそ、はじめて重要な韓米同盟も長期的に健全に維持できる。
キル・ユンヒョン|論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )