韓国で長官候補の人事聴聞会が開かれるたびに、決まって登場する質問がある。
「北朝鮮は主敵ですか」
ふと、次のような滑稽な質問が思い浮かんだ。
「いっしょにご飯食べる? それとも付き合う?」
国防部長官から統一部長官、さらには雇用労働部長官にも、冒頭であげた質問が投げかけられる。そして、その回答をめぐり与野党が繰り広げる攻防は、いまだに儀礼的な政治の儀式のように繰り返されている。北朝鮮は主敵だと答えても、主敵ではないと答えても、相手はすでに望む答えを決めている。その間に国政懸案の議論は後まわしにされ、不必要な理念論争が聴聞会を支配する。
「主敵」という用語は、1994年に金泳三(キム・ヨンサム)大統領の朝鮮戦争開戦日記念演説で初めて登場し、翌年の国防白書で公式化された。軍事的には当然の表現だった。当時、北朝鮮の核開発によって第1次核危機が表面化し、武装共産軍の相次ぐ浸透によって安全保障の不安が高まった時期だった。「主敵」という規定は、軍の対敵精神を強化し、国民には安全保障への警戒心を植えつけた。しかし、それから30年が過ぎた現在でも、われわれは依然として1990年代の言葉を手放していない。
安全保障の現実は変わった。北朝鮮の脅威はいまなお存在するが、その性格は変わった。在来型の挑発よりも、核とミサイルを通じた戦略的抑止に重点が置かれている。「敵」ではなく「脅威」だ。敵は破壊の対象だが、脅威は管理して統制し、国益に合致するよう扱わなければならない。戦略とは、敵を必ず破壊するものではなく、脅威を管理するものだ。こんにちの安全保障ははるかに複合的だ。サイバー攻撃、経済安全保障、グレーゾーンの挑発まで、誰が主敵で誰が味方なのか、はっきりとは区別できない時代だ。
そのうえ「主敵」という用語は、南北関係においては対話の扉を閉ざす自滅的な手法となる。統一部が主敵として想定したまま対話を進めるのであれば、それこそ自己矛盾だ。国防部の強力な対備態勢と統一部の交流・対話は、緊張と柔軟性という二つの軸として調和しながら機能しなければならない。いま必要なことは、主敵論の単純な否定でも盲目的な守護でもない。朝鮮半島の未来のために、この枠組みをさらに成熟させることだ。
もちろん、軍内部の対敵精神を完全に消そうというわけではない。軍は軍隊として戦う準備をしなければならない。戦争を抑制し、有事の際に勝利するためには、強力な対備態勢を維持しなければならない。しかし、これは対外関係の設定や統一政策の議論のすべての領域に、画一的に適用できる基準ではない。
聴聞会は政策を検証する場であって、理念への忠誠心を試す場ではない。安全保障を政治的スローガンとして消費することはもうやめなければならない。長官は国民を説得し、政策を調整する職位だ。ならば、より大きな観点でバランスを取らなければならない。「主敵」ではなく「現存する脅威」として再規定することがその出発だ。
先日、夫婦同伴で会った友人が、息子が近く軍隊に行くということで、懸念を打ち明けた。そのとき、友人の妻が一言口にした。
「軍隊に送る母親の気持ちとしては、主敵という言葉はなくなればいいですね」
その瞬間、心を打たれた。2025年の朝鮮半島の安全保障の現実として、いまでも「主敵」という概念がはたして有効なのかを、再び問うことになる。
新たな安全保障の現実には、新たな言語が必要だ。主敵という古い枠組みから脱し、脅威を管理して平和を設計する安全保障哲学に進まなければならない。主敵という言葉がなくても、国民的共感を形成し、未来指向的な安全保障戦略を樹立することは可能だ。いまこそ、その道を模索すべきときだ。
キム・ドンヨプ|北韓大学院大学教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )