先日、あるドイツ人政治学者とソウル市内でお茶をした。ドイツのデュースブルク・エッセン大学のハンネス・モスラー教授だ。長年にわたり韓国政治を研究してきた専門家であることから、彼にさっそく「今回の(第22代)総選挙をどうみるか」と尋ねた。少しのためらいもなく「これまでにない」退行だとの答えが返ってきた。さらに、「前回の大統領選挙も相当な退行だったが、今回はさらに悪化した」と付け加えた。その理由については「(政党同士の)抗争しかないじゃないか」と述べた。
それもそのはず、今回の総選挙はこれまで「結局のところバッジ争い」だった。選挙政局初期に儀礼的な公約の発表はあったものの、どれ一つとっても争点になったり市民の記憶に刻みつけられたりした議題はない。したがって、有権者に記憶されている今回の総選挙での政界の姿は、おそらく各党の候補公認騒動と政治家の離合集散、そして暴言ばかりではなかろうか。
医学部増員をめぐる対立は1カ月半にも及ぶが、乱脈ぶりは相変わらずだ。医学部の増員は、メディアがよく言う「医政対立」事案なのか。そうではない。厳然として患者をはじめとする市民の命と安全に直結する事案だ。いくら選挙の時期だといっても、いやむしろ目に見える政治の季節である選挙の時期であるからこそ、各政党は解決策をめぐって争わなければならないにもかかわらず、政党や国会などは互いに、あるいは行政府と真剣な協議どころか、舌戦さえまともに繰り広げるのを見たことがない。
現実政治において選挙は勝敗のある戦いにならざるをえないが、その戦いがひたすら「バッジをめぐる乱打戦」ばかりなのは政治の本領とは程遠い。政治とは何か? すべからく医学部増員のように、私たちの社会の構成員が共通して直面する社会問題に対して解決策を提示する「集団的な意思決定」であるべきなのではないか。政治がそのような機能を発揮できないのなら、私たちはその政治を根本的に見直さざるを得ない。
モスラー教授は昨今のこのような韓国政治の有様を「渦巻き政治」理論によって説明しようとした。先の大統領選挙のように、今回の総選挙も巨大政党同士の抗争の様相を呈しているのは、韓国政治の長年の特性である「渦巻き政治」が機能しているからだ、との論旨だ。実際に「渦巻き政治」は、政治学徒なら一度は聞いたことのある現代韓国政治のパターンを説明する古い隠喩だ。米国の元外交官の学者、グレゴリー・ヘンダーソンがハーバード大学出版部から1968年に出版した著作『朝鮮の政治社会』がその起源だ。ここで言う渦巻きとは、私たちのよく知る「水が下へと吸い込まれる」それではない。その逆だ。「原子化された諸個体が権力の頂点へと向かって上昇気流に乗って突進する様子」としての渦巻だ。ヘンダーソンは、経済的利益を重視した米国人とは異なり、韓国人はひたすら権力と官職がすなわち社会的階級を決めると考えて、誰も彼もが「一つの椅子」を目指そうという欲求がひときわ強いと説明した。このような現象は、多数の韓国人に権力こそ最高の価値だと思わせた。それが韓国政治のパターンとして内面化されたというのだ。
今回の総選挙においては、特にこのような現象がはっきりと捉えられている。学者、弁護士、ジャーナリスト、労働運動家、市民団体に所属する活動家、果ては宗教家たちまでもが争って「権力の中心」へと向かって飛び込んでいる。頂点は「バッジ」だ。特に巨大政党のバッジだ。さらにこの過程で、時には普段から唱えてきた理念も、哲学も、価値も、長く身を置いてきた所属政党も羽のように軽く無視し、一線を超える姿まで見せた。この隊列においては市民社会団体の人士も、一部の進歩政党も例外ではなかった。
まさにこのような様相だからこそ、実に56年も前にある外国人学者が説明した韓国政治に対する隠喩を、2024年の総選挙の局面においてもう一人の外国人政治学者が取り上げたのだ。ヘンダーソンの韓国政治の理論は今日の大韓民国政治を説明するには不適切な部分もあるが、少なくとも「渦巻き政治」というマクロ的洞察だけは今も重みを感じられるのはモスラー教授だけではないだろう。このような認識は、その結果がどうあれ、4月の総選挙後に韓国社会が振り返るべき問いがどのようなものであるべきかも同時に示している。すなわち「韓国政治はなぜ渦巻きの罠に今も閉じ込められているのか」、「民主化以降、進歩政治はなぜひときわ繰り返し失敗するのか」だ。
問いを政治に限定することはできない。市民および労働社会団体、学界、そして有権者に至るまで、全方位的に韓国社会の各部分で、それぞれの価値観や倫理などから根本的な問いを投げかけなければならないのではないかとも思う。複合的な危機に直面する韓国社会の未来は、ある意味このような問いに対する真剣な態度にかかっているのではなかろうか。
イ・チャンゴン|先任記者兼論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )