「これがあの路地の金曜日の午後10時半の写真です。人が多すぎて撮っておきました。そこから続く世界飲食文化通りでは、外国人の友達と『リラックス』、『カームダウン』と叫び、前で倒れる人たちを支えたりもしました。このような状況が前日の共同運営の監視カメラ(CCTV)に映っていたはずなのに…。モニタリングはしたでしょう」
30日午後、圧死事故が起きた梨泰院(イテウォン)の路地周辺で会ったタンと名乗る韓国人男性は、携帯電話の写真を見せながらついに涙を見せた。「娘と同じ年頃の10代や20代の子たちが不思議そうに目をキラキラ輝かせながら、歩き回っていました。路地に黄色い腕章をつけた人が何人かでもいたら、きっと違っていたはずです」
ポリスラインが張られて路地には人の姿は見えないが、その日の記憶を消すことはできない。幅3メートルあまりの細い路地で若者たちが圧死した。ハミルトンホテルの右側に回ると、近くの自営業者たちが周りの人たちと話しているのが聞こえた。「外国人記者が、これほどの人出なら通路を一方通行にすべきだと忠告していた。香港なんかはみんなそうするんだって」
私たちはまだ答えを聞いていない。新型コロナウイルス感染症以前の2017年には20万人が詰めかけたここで、3年ぶりのノーマスク行事だったのに、なぜ人を分散させる措置を講じなかったのか、圧死事故で近づくことさえ難しい状況なのに、統制放送が可能なヘリコプターでも飛ばす方法はなかったのか…。ある警察官が「一人でも多く助けられなくて申し訳ない」とインターネット掲示板に書き込んだように、彼らもまた目の前で起きた悲劇に対処できない状況が悔しかっただろう。だからこそ、もっと執拗かつ切実に問わなければならない。何が問題だったのかを。
ところが警察と消防、地方自治体を総括するイ・サンミン行政安全部長官は「警察・消防スタッフの配置不足が惨事の原因ではない」とし、予想より人が多かったわけではないと述べた。そして、「騒乱とデモで(梨泰院に配置される警察・消防スタッフの)人数が分散された」とも語った。前後が矛盾する発言であるだけでなく、たとえそうだとしても、保守や進歩の集会に13万人を超える人波が真夜中まで押し寄せることはなかっただろう。同日、梨泰院一帯には137人の警察官が配置された。それも安全対策ではなく麻薬・性犯罪のような事件に備えるためだった。大統領から党政、警察庁長官まで相次いで「麻薬との戦争」を強調した直後だった。ならば、安全を守れなくて申し訳ないと謝罪し、「不足なことはなかったか徹底的に調べる」程度は答えるのが常識だ。
「安全」を最優先に考えると、行政の視野が変わる。日本の場合、ハロウィーンデーのような民間行事の日も大規模な人出が集中すれば、人の動きを一目で見下ろせる警察の誘導車と「DJポリス」を配置する。2013年、日本のワールドカップ出場が確定した日、東京の渋谷ではユーモアをまじえて秩序を維持した男性機動隊員がインターネットで「DJポリス」と呼ばれて話題になり、その後、制度として定着した。「皆さんは12番目の選手。日本代表のようなチームワークでゆっくり進んでください」、「私たちはチームメイトです。どうか皆さん、チームメイトの言うことを聞いてください」「怖い顔をしたお巡りさん、皆さんが憎くてやっているわけではありません。心ではワールドカップ出場を喜んでいるんです」のような言葉による強圧的でない取り締まりが、若者たちの間で反響を呼んだ。日本は今年も渋谷に350人の警察を配置し、自治区は条例に基づき路上飲酒を禁止しており、商店にハロウィーン当日の酒類販売自制を勧告すると共に、公務員と民間警備員100人を動員して秩序維持に乗り出した。犯罪者を捕まえるのではなく、皆が行事を安全に楽しむことが目的の時に可能な発想だ。日本もまた、大きな圧死事故などを経験しながら変わってきたわけだ。
一部の市民が現場で非常識な姿を見せたが、多くの市民が自発的に心肺蘇生法に乗り出し、近隣の自営業者たちも救助スタッフを助けた。セウォル号の時もそうだったように、このような市民意識が深い悲しみに包まれた社会を慰める。しかし、愛する家族と知人を失った人々と集団トラウマに陥った国民を慰める最大の責任は国にある。主催者のない行事での補償や責任追及の可能性についていろいろな見解が出ているが、万が一の災害や惨事を想定して備えるべきだった長官が「仕方がなかった」という態度を示すのは全く別の問題だ。
梨泰院は長い間、異邦人の地だった。一時は在韓米軍のための基地村があったところが、1990年代以降は各国の飲食店が立ち並び、新しい文化空間に生まれ変わった。植民地を経て戦争を経験した韓国がグローバル先進国になった今を象徴するように、梨泰院は文化のるつぼになった。そこで起きた悲劇が語ることは明らかだ。韓国はお金や技術のない国ではない。安全を最優先に考える認識と実践の意志がないだけだ。だが、行安部長官の認識がこの程度ならば「民間行事だから仕方がない」というような呪術から韓国社会は抜け出すことができない。イ長官は31日、「生半可な予測や扇動的な政治的主張をしてはならないという趣旨」の発言だったと釈明した。なぜ万が一の事態に備えられなかったのかという常識的な問いに「扇動」というレッテルを貼ろうとするイ長官の認識が、私にはもっと危険に思える。